La Terre des fils

Front Cover
Gipi, La Terre des fils, Futuropolis, 2017.

イタリアで刊行された La terra dei figli を元にした仏訳版が本書。現代文明が滅び、まともな秩序が失われた世界で生き残りを図る二人の兄弟の物語。世界がどれだけ荒廃しているのか、そしてそこで生き延びている人びとがどれだけ野蛮な状態になっているのかということについて、客観的な視点からの説明を一切省き、登場人物の直接的な言動だけでもって読者に向けて徐々に披露していく過程がスリリング。弱肉強食の世界だからといって必ずしも登場人物がみな利己的に振舞い、合理的な損得勘定のもとで暴力による略奪ばかり考えているわけではないという点に意外性があって予測しない出来事が頻発する。仮に現実世界において既存の真っ当な秩序がすっかり失われるような破局があったとしても、人びとが命の大切さや他者への思いやりを取り戻す可能性はいつでもあるはずだという、著者が人類に対して抱く希望を感じさせずにはいられない作品だ。

主な登場人物を紹介しておこう。まず、主役を務めるのはリノとサントという二人の兄弟で、父親とともに湖の上で暮らしている。彼らには物々交換の相手がいて、同じ湖を拠点とするアンギロという気難しいじいさんだ。父親には愛人というより、内縁の妻とでも呼ぶべき立場の中年女がいる。医療の技術を持っているけれども、主人公ふたりからは魔女呼ばわりされている。湖を渡った先の陸地をはるかに行くとロレンツォとマッテオという兄弟が住んでいる。この二人はすべての登場人物のなかで最も安定した生活を送っている。頭部が肥大化した見た目はまるでホラー映画に出てくる化け物のように見えるけれども、野菜を栽培し、豚や鶏を飼育する生活ぶりは牧歌的であり、充実した食生活を送っていることが見て取れる。主人公兄弟と対面した際の態度も温和そのもので、まるで孫と再会して喜びを抑えきれないおじいさんといった和やかなものだ。しかしながら、実は人びとを捕まえて奴隷として飼育し、「篤信者たち」と呼ばれる集団との取引に利用するという邪悪な側面を持っている。篤信者たちは凶悪な狂信者からなる排他的団体で、よそ者を捕まえて嬉々として惨たらしい仕打ちにおよぶ蛮行を日々の生業としている。この物語はふたりの兄弟が以上の登場人物たちと次つぎに関わりを持つことで、結果として人間らしさのようなものを取り戻すに至るというのがあらすじだ。

ジャンルとしてはいわゆるポスト・アポカリプスということになるけれども、作者はこの作品世界の背景について読者が当然知りたく思う詳細な情報を伏せたまま話を進めていく。現代文明の遺物があれこれ登場することから近未来の物語だということはわかる。そして一部の登場人物の名前からは、おそらくイタリアが舞台となっているんだろうということも推測することが出来る。しかし、いったいどのようにして秩序が失われたのかというそもそもの原因や、登場人物たちの生息している場所の外の世界はどうなっているのか、地球の裏側はどうなっているのかといった素朴な疑問には明確な答えを与えないまま物語を終わらせている。こういった疑問点については最終的には物語の核心と関係ないから省いているんだろうと解釈することもできる。ただ、それでも腑に落ちない部分もある。登場人物の会話からはCTスキャナーを使用することのできる場所がどこかにあるそうだ。この「CTスキャナー」は作品中に実際に出て来たり、セリフの中で言及されたりする文明の利器のなかで最もハイテクなものだ。こんな荒廃した世界でまだそんな物が使用可能なのかと驚かされると同時に、どうしてそのハイテク機器が稼働している場所へ我先にと争って移り住もうとしないのかといった疑問も湧いてくる。

登場人物たちが棲息する過酷な環境をもたらしている決定的な要因、およびどうして彼らは外の世界へ逃げ出そうとしないのかという素朴な疑問について僕の推測をまとめておきたい。まず、この作品世界において莫大な人口の減少をもたらすようなカタストロフがあったとするならば、それはどうも何らかの毒物の蔓延が原因のようだ。二人の兄弟の父親は湖から獲れる魚について半分は毒があると言っている。また、ロレンツォとマッテオの兄弟の頭が肥大したのは毒にやられたからだということを父親が息子たちに教えている。この荒廃した世界をもたらした根本的なきっかけは毒物の蔓延だと見なしていいだろう。次に父親がなぜ湖から出て外の世界へ行こうとしないのかという点について。登場人物たちのなかで最も凶悪な集団である篤信者たちの存在を二人の兄弟の父親は知っているはずだけれども、どうして今まで彼らに襲撃されることなく無事に生活することが出来たのか? またどうして篤信者たちの根拠地から遠く離れた場所へ逃げようとしないのか? こういった疑問を感じてしまうのは異なる集団のあいだの拮抗関係を静的に安定したものとみなしてしまうからだろう。篤信者たちによる襲撃が今まさにその範囲を広げつつある最中だとみなすならば問題なく理解できそうに思える。父親は篤信者たちの脅威を感じているけれども自身が病気を患っていることも自覚していて、彼らを避けて遠くへ逃げ続けることなどできそうにないと考えていたんじゃないだろうか。

引用画像その1
命乞いをするアンギロを拷問にかける兄弟。憐憫の情などみじんもない

物語の進行は大雑把に二つの部分に分けられる。父親が死に至るまでの序盤、および父親の残した日記帳の中身を解読してもらうため兄弟がさまざまな人間と関わりを持っていく残りの大部分だ。序盤において何よりも目につくのは二人の兄弟の野蛮な振舞いだろうけれども、作者はこれを父親とのあいだの一種の愛憎関係とミックスさせて読者に提示している。単純に野蛮であるということは、過酷な生存環境をふまえれば仕方のないことだと納得できるかもしれない。しかし、この兄弟の野蛮な振舞いはそれだけで正当化できるものではない。動物の死体の処理の仕方の不手際について父親から小言を言われたことをうけて、兄のリノは父親の殺害を提案し、死体を解体して腱の部分でもってロープを作ろうなどととんでもないことを平然と言ってのける。そのいっぽうで、作者は父親が子どもたちに隠れて自分だけご馳走にありつく様子を描写したり、父親の教えである「湖の向こうには誰もいないし、行けば死ぬ」という言い付けが嘘であることを子どもたちに気づかせている。さらに決定的なのが、リノは母親が自分を出産した際に自分のせいで亡くなってしまったと考えているということだ。だからこそ父親に嫌われているんだという思い込みがある。この野蛮な二人の兄弟を支持していいのか、好意的に思っていいのか、応援するべきなのかという判断を読者にゆだねたうえで、意図的に揺さぶりをかけるというのが作者の狙いだ。二人の兄弟に好感を持つか反発するかということは読者によってさまざまだろうけれども、この二人がいわゆる人間らしさを取り戻していく長い過程を描くのが物語の残りの大部分ということになる。

父親の形見である日記帳を手にしたリノは、そこに何が書かれているのか気になって仕方がなく、字の読める人間を探す必要に迫られる。たったそれだけの動機が物語を最後まで牽引する原動力になっていて、そこが僕にとってはちょっと物足りなく感じるところだ。生前の父親が日記帳に自分のことを書いていたとリノは思い込んでいる。いや、実際に父親とのやり取りのなかで「お前のことを書いているんだ」と確かに言われてはいる。ただし、直後に「面倒なくそガキだ(ということを書いてるんだ)」と補足されていて、父親の思惑は明らかなように思える。しかし、どういうわけかリノは納得していないようで日記帳の全文の正確な解読を求めて彷徨うことになる。読者の視点からは日記帳の中身に重大な秘密が隠されているようにはとても思えず、したがってミステリー小説の謎解きのように読み進めることなど出来ない。話作りの観点から言うと、日記帳を解読することの出来る人間を探すという動機は物語の後半において二人の兄弟を危険にさらす要因になっていて、読者をやきもきさせるスリリングな展開をもたらしている。だからこそ、その動機にもっと説得力が欲しかったというのが僕の不満だ。

引用画像その2
二人の兄弟を歓迎するマッテオとロレンツォ。見た目のおぞましさは彼らの本性に比べれば実はたいしたことがない

本作の登場人物はすべてではないにしても、多くが野蛮で残酷な振舞いに明け暮れている。ただし、法の秩序がないから単純素朴に利己的に振舞っているということに留まらず、作者によって独特の工夫がなされている。その工夫のすべてに感心するわけではないけれども、作品評価の肝となる部分なので指摘しておきたい。まず、野蛮であるということに膨大な時間の経過を感じさせるという点だ。自らの生存のためにはやむを得ないといったギリギリの判断などもはや必要としないほど野蛮が常態化しているということだ。そして、異なる価値観を持つ外部の人間の反発が予想できないほどに慣れ親しんだ野蛮さ、とでも呼びたいものがある。これはロレンツォとマッテオという兄弟のことだ。日記帳を解読してもらうことを目的にリノとサントの二人は、この頭が肥大化した不気味な兄弟のもとを訪れる。外見の不気味さはさておき、態度は友好的そのものに見えるこの兄弟は二人の少年と親睦を深めるために彼らの住まいである農場をあちこち紹介するんだけれども、そこでショッキングな一幕がある。マッテオは地下に監禁している奴隷の女をわざわざ少年ふたりに見せて案内している。子どもたちに奴隷の存在など知られたら恐怖を与えるんじゃないかといった心配をまったくしていない。よそで捕まえてきた人間を奴隷として監禁して飼育し、篤信者たちからの庇護と引換えに取引きするという契約について臆面もなく説明している。まるでリノとサントが奴隷の世話を喜んで引き受けると期待しているかのごとくに。限られた生活空間の内部で野蛮が常態化して膨大な時間が経過すると、外部の人間の素朴な反応さえ予想できなくなってしまうという、血肉化された狂気とでも呼びたくなるものがここにある。前述したようにこの作品では世界の秩序が崩壊した具体的な原因や過程をすっかり省いているけれども、こういった場面で歴史の積み重ねを感じさせる工夫がなされているといっていい。この場面がショッキングな一幕であるのは、マッテオたちが奴隷を嬉々として披露するという狂気の沙汰だけではない。頭を刈られ丸裸で檻に入れられている女の奴隷を目の当たりにして、リノとサントの少年ふたりが何ら驚きや嫌悪の色を見せないという事実も付け加えなければならない。一応、サントはほんの少しだけ奴隷が気にかかるような仕草を見せてはいるけれども、二人とも淡々と事態を受け入れてしまっている。

登場人物の野蛮で残酷な振舞いにはいくらか戯画化されている部分もある。最も凶悪で残酷な集団である篤信者たちは彼らの信奉する神を褒め讃え、崇拝する言葉をたびたび口にするんだけれども、これがちょっと悪ふざけのような設定になっている。彼らが神の名を指すときは "le dieu Trokool" であり、捕まえた奴隷を指して「いいね!(like)」50個分の価値があると言ってみたり、まるで現在のインターネット文化の延長にあるかのように設定されている。また、篤信者たちの中で長老的な地位にある老婆が奴隷の処遇を巡って神の託宣をうかがう時に実際に用いられるのは子猫だ。子猫がニャーニャー鳴くのを聞いて「神は死刑を要求している」などといった戯言を並べている。狂信的な暴力集団の実態としてとてもリアリスティックとは言えず、冗談で取って付けたみたいな適当さだ。こういった戯画化された側面はもちろん意図的にそうなされているのは言うまでもない。なぜそうなっているのかと言えば、そういう緩い設定が物語を首尾よく進めるうえで必要だったからだという事情があるだろう。篤信者たちの部分的とはいえ間抜けな狂態は、主人公二人が圧倒的に不利な状況で殺されることなく生き延びるシナリオに説得力を持たせるうえで必要だったからに違いない。

おそらくは文明が失われて野蛮な状態に置かれているということを示唆するために、登場人物の話す言葉が妙なフランス語になっている箇所がいくつもある。男性名詞に女性定冠詞を付けたり、人称代名詞を過剰(?)に使用したり、僕の拙い語学力でも読んでいて気になるほど目につく。たぶん訳者が原書のイタリア語での表現を忠実に再現しようとしたんじゃないだろうか。

引用画像その3
終盤で重要な役割を果たす死刑執行人。小道具のゴーグルは篤信者たちの教義のうえでは何か意味付けがされているのかもしれないが、実質的には意味のないただの飾り

作画については何よりもまず雨が降る中での描写が美しい。雨粒が落ちる様子をおびただしい描線でもって描き込みながら、人物や背景が埋没することなく絶妙に霞んで浮かび上がって遠近感や立体感を損なわない。また、林の木々が陽の光に照りかえって白んで見える様子を、葉先から根元に至る陰影の違いをきめ細かく描き分けていて暖かさまで感じさせる。とはいえ、最も印象に残ったのは篤信者たちの一員である死刑執行人の描写だ。ひとりだけゴーグルをかぶった顔つきは目を瞠らせる。よく見れば顔のパーツはむしろ記号的で、線を引いただけの目つきや小動物のような小さな口にばらけた歯並びがのぞいていたりする。しかし、ゴーグルの縁の照り返しやレンズ越しに見える顔の質感が絶妙で、それでいて写真起こしのような継ぎはぎっぽさをまったく感じさせない。人物の顔つきを点や線の寄せ集めのように描く記号的簡略さと、陰影でもって天候や物の質感を醸し出す緻密さが違和感なく合わさった白黒漫画のひとつの理想なんじゃないだろうか。少なくとも僕にはそう感じられる。

物語は結局のところ、子どもが親に必然的に抱かざるを得ない「愛」が元になってすべてを解決に導くといった形で終わっている。二人の兄弟は野生児そのものに見えるけれども、親に育てられた経験を記憶として持っている。そしてどれだけ厳格な親であったにしても、子どもは親との触れ合いの中で愛情を受け取らざるを得ない……そういう考えが作者の中にあるんだろう。僕は決して本作がポスト・アポカリプスの物語として説得力があるなどと言いたいわけではない。登場人物の言動に説得力があるか、二人の兄弟の活躍ぶりに説得力があるかと問われればあるわけないだろうとしか言いようがない。ただ、どれだけ野蛮そのものに見える人間でも愛情や思いやりのようなものを取り戻す契機が親から子に引き継がれて心のどこかにあるはずだ、というのが著者の思想であるならばそれには同意することが出来る。あくまで「契機」としてだ。その契機が活かされるか失われるかは本人の資質にもよるだろうし、過酷な環境によって潰えてしまうこともあるだろう。あくまで契機としてしてならば、人間はいつでも親から受け継いだ愛を取り戻す可能性を持っているはずだというのであるならば、これはとても良い作品ですねと言わざるを得ない。皮肉抜きで。