Antigone

Front Cover
Olivia Vieweg, Die Unheimlichen: Antigone, Carlsen, 2019.

本書はソポクレースによるギリシャ悲劇を漫画化した作品。ドイツ語で書かれた漫画を読んだのは初めてじゃないが、ここでレビューを書くのはこれが最初の一冊ということになる。率直に言うと漫画としておもしろいかどうかというよりも、ドイツ語の教材としておおいに役立った一冊だ。

引用画像その1
テーバイ王クレオーンに真っ向から対立するアンティゴネー

たいして長くはない原典を大幅に端折ってさらにコンパクトにまとめているものの、モダンな物語として話の筋を理解したい視点からすればこれでじゅうぶんに思える。母国に戦争を仕掛けて討死にしたポリュネイケースの埋葬を認めるかどうかということをめぐる、ポリュネイケースの妹アンティゴネーとテーバイ王クレオーンの激しい対立が物語の骨子だ。岩波文庫で原典を読んだ時の感想を思い出していちばんのポイントを言うと、何といっても神の法というものをどうとらえるかという問題がある。国教というものを持たない多くの近代国家では「神の法」などと言い出せばただちに嘲笑の対象になりかねない。それでも、明文化された憲法や法律に超越する掟、あるいは掟のようなものを頑なに抱くのは別におかしなことではない。たとえば、昨今とくにアメリカで問題となっている中絶の権利の主張はその典型だ。神を持ち出すかどうかの違いがあるだけで本質的にはアンティゴネーと変わらないじゃないかと思える。その意味でこのギリシャ悲劇は現代にも通じる、というよりむしろ永遠に片付くことのない問題を提示しているというのが僕の受け止め方だ。

本作の終盤では明らかに原典とは異なる脚色が加えられている。原典ではテーバイ王クレオーンが自らの過ちを認め、悔い改めるにまで至るが時すでに遅しといった感じで終幕だ。いっぽう、本作では死ぬ人間の数が少なくなっている。そしてカラスの大群の振舞いによって神の意志が表わされ、審判が下されたかのように受け取れる。いずれにせよアンティゴネーにとって救われない結末であることには変わりないが、漫画の方のアンティゴネーは現代的な物語でしかポジティブに描きようがないと思われる行為に及んでいる。死んだ恋人をなお慕い続ける女が究極的に仕出かしてしまうようなことをやっている。亡骸に砂や水をかけることが正統的な埋葬方法だと考えていた古代ギリシャ人にはこの結末は意味不明かもしれない。著者がなぜこういった脚色を加えたかという理由については二つ想像がつく。まず、原典のアンティゴネーの最期の姿があまりにも無残ではっきり絵に描くのを敬遠したかったということがあるんじゃないかと思う。それから、悔い改めるクレオーンの姿で幕を引くのではなく、あくまでアンティゴネーを最後まで登場させることによって、倫理的な裁定よりもアンティゴネーの強い意志を前面に打ち出したかったんじゃないか……というのが僕の推測だ。強い女、女の強い意志を印象付ける形で締めくくったことに別に文句はないが、ゾンビ物のホラー映画にありそうなちょっと安っぽい演出になってしまったことも否めない。

本書が僕にとってドイツ語を学ぶ上でおおいに役立った理由は、まず短すぎず長すぎない程よい長さの文が非常に多いという点が挙げられる。そしてテキストのほとんどが会話文で占められているということもある。この二つの特徴の何がいいかというと、Ankiというアプリにカードとして登録して使うのに都合がいいということだ。一文読み進めるごとにその一個の文の英訳を問題文としてカードを作り、正解のほうには本書のドイツ語の一文をそのまま登録する。その日はキリのいいところまでそうやって読み進める。翌日は原則的に登録済みのすべてのカードを消化するまで次の文には進まないというふうにして学習する。僕はそうやって本書をドイツ語の教材として消化した。なぜドイツ語の原文を問題文として登録しないのかといえば、いちど読んだドイツ語の文の意味を思い出すのはあまりにも簡単すぎるからだ。英訳文をもとに原文のドイツ語を復元するという作業のほうが勉強になる。なぜ和訳ではなく英訳を問題文として登録するのかというと、ドイツ語と英語の文とでは一般的に言って同じ構文で表わせることが多いので、与えられた構文をドイツ語でどう組み立てるのかという文法知識を再確認したり、新たに語彙を増やしたりするという目的に向いていると思うからだ。日本語の訳文から元のドイツ語を推測しようとすると、いくつもの異なる文型が可能で迷ってしまう。もちろんそれはそれで勉強になるに違いないが、脱初級者の段階にいる僕にとっては優先順位が異なる。

初級者向けの一冊としてあまりおすすめできない点も一応挙げておくと、限定的な分野のテキストでしかお目にかかれないと思われる語彙がいくつか出てくることだ。たとえば、埋葬するということを意味する bestatten という動詞は辞書では「雅語」として扱われていて、似たような意味を持つ begraben や beerdigen とは区別される。格調高いギリシャ悲劇だからこそ用いられているに違いないが、おそらくは頑張って記憶してもあまり役に立つ機会のない言葉だと思われる。とはいえ、最重要の基本的な語彙だけで出来たテキストを読みたいとこだわるならば、それこそ教科書か幼児向けの読み物くらいしか選択肢がなくなってしまうだろう。そっちの選択が駄目だと言うつもりはないが、ある程度文法事項をおさえたらあとは好みのテキストを乱読するというのが僕のスタイルだ。その点ではドイツ語と同様に独学で学んだフランス語の場合と何も変わらないし、とくに何の問題も感じていない。

引用画像その2
クレオーンは実の息子の諫言を聞き入れず、息子の花嫁であるアンティゴネーへの最終審判を下す

本書はあくまで漫画なのでもう少し漫画的な側面についても触れておこう。コマの中に人物をどう配置してフキダシのなかにどれだけセリフを詰め込むかといった点、つまり読み進めるうえでストレスになりかねないテキストとキャラクターの配置という点においてはかなりバランスが取れていて特に不満を感じさせない。読み慣れた日本の漫画を読むようにするする読めてしまうと言っていいくらいだ。暗いムードを仄めかす集合線や、怒りの感情を表わす震えの効果線など漫画的な記号表現もふんだんに駆使されていて違和感がない。難点は、まず背景の描線が荒っぽすぎてまるでラフスケッチみたいでつまらないということがある。石柱の立ち並ぶ神殿と思われる建築物の石の硬質な質感など期待できないし、生い茂る木々の葉っぱは殴り書きの読めないメモみたいだ。それから描線を用途によって明確に使い分けるということが徹底されていないせいで、人物の急激な動きを描かなければならない場面において二重三重にブレた描線が動きを表しているというより、単純に下書きの線を消し忘れたかのように見えてしまっている。著者が最も得意としているのはおそらく人物の腕や手先の描写で、そこだけはかなり丁寧で注意が行き届いていると感じた。まあ、そんなところだ。

漫画としてではなく語学の教材として評価されるということは著者や出版社にとっては不本意かもしれないが、僕が本書に大いに感謝していることには変わりない。ドイツ語の初級文法を終わらせたらとりあえずこれを読めと自信を持って勧められる一冊だ。