Taxi! Stories from the Back Seat

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Aimée de Jongh, Taxi!, Conundrum Press, 2019.

先にオランダで出版された同名作品の英語版にあたるのが本書。著者自身が異国でタクシーを利用した際の貴重な体験を元に描いたと思われる漫画。都合四人に及ぶタクシー運転手とのあいだの何気ない雑談が、図らずも互いの本音を引き出し、共鳴をうながし、降車する頃にはまるで旧知の間柄だったかのように打ち解けた関係に至るという一期一会の会話の妙がシンパシーとユーモアを交えて描かれている。

本作は四つのエピソードから成っていて、いずれも主人公がタクシーを拾う場面から始まって降車するところで終わっている。そのあいだ車上強盗に遭うわけでもなければ、交通事故に巻き込まれるわけでもない。車外に目を向ければ見慣れない光景があふれていたとしても、寄り道することなくただ目的地に着くのを待つだけだ。したがって乗客として運転手とおしゃべりする以外に特に何もしていない。では、交わされる会話の内容それ自体が脚本のあるコントのようによく出来ていてあえて漫画にする必要もないほどおもしろいものなのかというと、そういうことではない。登場する四人のタクシー運転手はそれぞれ個別の事情を抱えた個性的なキャラクターであって、運転手の違いがそれぞれのエピソードに固有のおもしろさをもたらしているということは確かだ。それでも、彼らのタクシーに乗車する客が本作の主人公ではないほかの誰かだったならば、結果はまるっきり別物になっていたに違いないと断言できる。どう転んでもあえて漫画に描くほどの体験にはならなかっただろう。おもしろさを引き出しているのは、あくまで乗客である主人公のほうだ。

主人公のエイメはオランダで生まれ育ったオランダ人だけれども、父親はジャカルタ出身のインドネシア人でありムスリムだった。このような固有の背景が幸いしてこそ、タクシーに乗車することが単なる些末な用事に終わらずに、余人には通常ありえない稀な経験をエイメにもたらしているという側面がある。つまり彼女には素性に因む背景からしてすでに独特の話題の材料が備わっていると言っていい。それでも作中で描かれているエピソードがたった4回タクシーに乗ったときの出来事からのみ成り立っていることを思うと、まるであつらえたかのようにこの彼女独特の素性が話の中でおおいに活かされていることに驚かざるをえない。平均的な日本人だったならば4回タクシーに乗るあいだにこれほどにプライベートな話題を運転手と互いにさらけ出しあうということはまずありえないと思える。これはエイメが漫画家であり、仕事柄ふだん話をする相手がロクにいないということ、にもかかわらず本人が相当の話好きであり、なおかつ初対面の人間に物怖じしない性格だということも要因になっている。とはいえ、運転手とのあいだの長話がただの冗長な雑談にとどまらずにそれだけで漫画をおもしろいものにしている根拠は別のところにある。

エイメがタクシーに乗車した時と場所を登場順に挙げると、まず2014年のロサンゼルス、続いて2018年のパリ、そして2017年のジャカルタ及びワシントンDCとなっている。いずれも彼女にとって異国の地での出来事だ。運転手がたとえ見知らぬ外国人であったとしても、少なくとも言葉の通じるその相手と二人っきりの狭い空間で目的地までの長い時間を過ごすのならば、世間話くらいはするのがごく自然なことに違いない。ところがエイメが行きずりの運転手たちと交わす会話のトピックは、ありきたりの世間話を超えて当人の生死や人生の岐路に関わるような深刻な話題にまで及んでいる。

このことは彼女がただのおしゃべりではなく、口を出すべきところと控えるべきところをよくわきまえているということの結果なんだけれども、その分別の仕方にこそ彼女の個性がうかがえ、ひいては作品の評価のいちばんのポイントがあると断言したい。そして彼女のその分別の仕方には明らかにこれだけは譲れないとでも言うべき、原理のようなものが見て取れる。それをここでは「プライベートなものの大切さ」とでも名付けたい。ここで僕が「プライベートなもの」と呼ぶのは、一般に社会や民族などの集団に共通の理念や一般常識に対して、しばしば価値の低いものとみなされがちな個人やその家族固有の考え方や事情、体験などを大雑把に指すものと理解してほしい。四つのエピソードはそれぞれ、プライベートなものを取り巻くさまざまな条件をアレンジした上で、そのプライベートなものが尊重されるべき瞬間を浮かび上がらせて読者に対して説得力を持って訴えかける、そういった図式のバリエーションだとみなすことが出来る。

2014年のロサンゼルスのエピソードでは運転手がしょっぱなから愛想が悪く、エイメの話にまるで乗ってこない。それどころか、話をさえぎるためにわざわざラジオを付けるほどの態度の悪さ。サングラスをかけたスキンヘッドの容貌はとても人好きのするタイプではない。僕が乗客ならば間違いなく目的地まで沈黙してやり過ごすところだ。しかしエイメはこの不愛想なおっさんとのあいだの壁を意外にも崩すことになる。

ロサンゼルスのタクシー運転手1 ロサンゼルスのタクシー運転手2
見開きの8ページと9ページから。話し掛けるエイメに一言も応えようとしないロサンゼルスのタクシー運転手。スキャン画像の色合いが左右のページで異なっているのは調整の仕方がよくわからないからです。すいません

誤解のないよう断っておくが、別にエイメが巧みな話術でもって運転手の口を無理矢理に開かせたわけではない。彼女はさんざんプライベートな事情、すなわち親友が人種差別的な尋問によって不当に拘束されたことや、オランダでは誰もが自転車で用を済ますから自分がまだ運転免許を取得していないことなどの話題を振ってみるけれども、運転手のほうは無関心を決め込んでにべもない。そんな頑固な運転手でさえ、乗客と運転手の双方にとって本当に大切な話題ならば、すなわちおしゃべりでうっとおしい女だからと拒絶したくなる煩わしさを超えてでも語るべきことがあると思ったならば、おのずと話に乗ってくるという展開がこのあとに続く。ある個人のプライベートなものすべてが他者にとって有意義なものであるはずがなく、限られた条件においてそのプライベートなものを共有し、共感することが出来るという図式を鮮やかにあぶり出している、これはそういうエピソードだ。このロサンゼルスのエピソードが特に気に入っている理由は、タクシーの運転手と客という立場に関係なく、人間関係を左右する心理における真実を気付かせてくれるものだからだ。険悪で不愛想な相手と自分とを隔てる壁はひょっとしたら薄く脆いものかもしれない。ふとした瞬間にさっと通路が開かれて気持ちが通じるのかもしれない。ただし、じゃあどうすればいいのかということはその場ではなかなかわからないといったような……こういう経験はおそらく誰にでもあるもので普遍的に違いないと思える。

なお、この運転手がエイメに対して口を開くことになったきっかけはその時ラジオで流れてきたニュースであり、つまり偶然に過ぎない。もしその時間帯にそのニュースが流れてこなければ、エイメにとってロサンゼルスの運転手はただの気難しく愛想の悪いおっさんでしかなかっただろう。意志や努力ではどうにもならない偶然の機会が訪れた時にその偶然の機会を逃せばそれきりだ。そして一般に人間関係というものが同様に無数の偶然の機会で成り立っていることに思いを馳せると……自分はこれまでどれだけこういった偶然の機会を見過ごしてきたんだろうかと茫然としてしまう……。

エイメが2017年のジャカルタで乗車したタクシーの運転手は、彼女がオランダ出身だと聞くや否や険しい態度になる。オランダによるインドネシアの植民地支配の歴史をふまえてのことだ。エイメはもちろん一般常識としてそのことを承知しているので申し訳なさそうにしゅんとした様子にならざるをえない。この箇所を読むにつけ、もし僕がアジア諸国でタクシーに乗ったとき運転手から日本による過酷な植民地支配の話を持ち出されたらどうすればいいだろうかと想像せずにはいられない。到底その後うまく話を続けられるとは思えない。しかしそのヒントになるものがこのエピソードにある。

オランダ人によるかつての蛮行を非難したジャカルタの運転手にたいして、エイメは押し黙ったまま目的地に到着するのをひたすら待つようなことはせず、しばらく間をおいて再び話を切り出す。このときのセリフが絶妙だ。彼女は運転手の投げかけた一般常識に対して一般常識で返すようなことはしない。例えば、悲惨な過去の歴史を反省しながらも、未来に向けて両国の関係の発展を願う……といったような一般的な観点から物を言ったりしない。

あくまでプライベートな事情のもとに自分自身の特別な心情をさらけだしている。そしてその発言を受けて運転手もムスリムの立場から自分の家族の中のプライベートな出来事を持ち出すに至り、なごやかに会話が進んでいく。ちょうど、ロサンゼルスのエピソードと同様の鮮やかな切り返しだ。もっとも、エイメ本人は自分のプライベートな事情を持ち出せば運転手が態度を軟化させるだろうなどとは微塵も期待していなかった。国家間の悲惨な歴史という大きな枠組みを超えて小さな個人のプライベートな心情が相手に通じることがあるとすれば、それは一体どんなものだろうか? エイメの口から図らずもこぼれたセリフ、すなわち彼女がジャカルタを訪れた理由には、歴史上の加害者と被害者やムスリムと非ムスリムといった区別なしに誰の心をも動かしうる普遍的な心情があって、これ以上ないくらいの説得力がある。

2018年のパリでエイメを乗せた運転手はフランス生まれのフランス人だけれども両親はアルジェリア人であり、ムスリムとしてのアイデンティティを持つ。イスラム過激派による襲撃事件が起こったバタクラン劇場の前をタクシーが通り過ぎるという形で、パリでこのムスリムの運転手の置かれている境遇についてそれとなくエイメに思慮させるということが前振りになっている。そしてこの前振りが彼女と読者両方の意表を突く形で活かされることになる。エイメは世界中に報じられたショッキングなニュースによって当然知っている一般常識の視点からムスリムへの迫害を懸念したけれども、当の運転手の関心事はあくまでプライベートな事情のほうにあった、ということになる。言うまでもないが、別に著者はパリでムスリムへの風当たりが強くなっている風潮を軽視しているのではない。あくまで当事者のプライベートな事情のリアリティを垣間見せてくれいる。たとえ善意に基づくものであれ、何でもかんでも一般常識/ステレオタイプ的見解からムスリムの生活を推し量ることなどできないということだ。

2017年のワシントンDCのエピソードもまた、前述したプライベートなものの扱いがポイントになっている。乗客の命を預かるタクシー運転手という職業にふさわしい人物かどうかという判定基準に客観的な経歴を重視すべきか、それとも実際に客として乗ってみてその運転手の口から率直に語られる経歴についての話に耳を傾けた自分のプライベートな体験を重視するのかという問題だ。エイメの判断の結果は言うまでもない。決して悪くない話だけれども、ほかの三つのエピソードと比べると物足りなく感じる。その根拠の一つは、エピソードのハイライトとなる部分、すなわちこの運転手の経歴にまつわる告白が終盤になってから始まり、しかもほぼ一方的に運転手のほうから語られてしまっている点にある。すなわち人の命に係わるタクシーの業務に際してどのように運転手が取り組むのかという問題に主人公の視点や体験がまったく関わらずに進行してしまっているということだ。三年前の出来事であるロサンゼルスのエピソードから明らかなように、主人公はタクシーの安全性というトピックに大いに関心を持っているはずなのにまるで運転手の独演劇を見せられているようでもったいない。

二つ目の根拠はエイメと運転手とのあいだに特に何の衝突も齟齬もないためにほかの三つのエピソードには備わっているサスペンスがなく、単調に読めてしまうということだ。ただし、あえて好意的に解釈するならばこういう読み方も可能だろう。このエピソードのハイライトに至るまでの運転手の描写は彼の経歴における一大事件の深刻さを反映しているんだというように。実はこのワシントンDCの運転手はほかの三人に比較して運転中のマナーの悪さが際立っている。交通ルールを遵守しないほかの車に対してたった一度悪態をついただけなんだけれども、それでも客を乗せてるときにそこまで大げさに罵声を浴びせる必要があるのかと読者を不安にさせるほどだ。この運転手の度を越した激昂は、こののちに明かされる彼の過去の体験の反動だろうと言われればそりゃそうだろうと思える。問題はそれが前振りとして話の筋として活用されていないということだ。エイメが運転手の態度に不安や疑念を抱くような描写の一つでも挟めばもっと違った印象になっていたかもしれないが。

どうにも納得いかないのはこの運転手がエイメの年齢を当てて見せる場面だ。初対面の人間の年を見事に当てて見せるロジックはともかく、自分の人生の目的を何歳で悟るのか、そして何歳でどんなことを成し遂げるのかといったことは人それぞれで、適正で基準となる年齢などあるはずもない。僕には彼がただ独善的な人生観に固執しているだけとしか思えない。この運転手の考え方が僕と異なるからダメだと言いたいのではなく、エピソードの中で必要性がないこと、とくにのちの部分で明かされる彼の過去の体験とまったく関連付けようのないということが不満の理由だ。もっとも、どんな人間でも完璧ではないといったような一般論からはリアルな人間描写のひとつだとみなせるだろうが、たったそれだけのために本当に紙幅を割く必要があったのと疑問に思わずにはいられない。

著者による一般常識/ステレオタイプ的なものへの態度の取り方は、これまでの僕の叙述だけでは一般常識/ステレオタイプ的なものでは異文化社会における現地人の、あるいは現場におけるリアルな心情は理解できないといったように単純に受け止められかねないだろうが、実は本作全体を通して見るともうちょっと含みがある。人と人とが初めて出会う瞬間には一般常識/ステレオタイプ的なものを免れ得ないとでも言うべき諦念のようなものがある。エイメがオランダ人だと聞くや否や、現地人がクライフの名前を持ち出す場面が三か所ある。そのすべてにおいて直後のコマはエイメの姿を描かずに視点を転換している。オランダ人としてこれまでうんざりするほど同じ反応を外国人から受けてきてもううんざりしているということが伺える。しかし、決して彼女の呆れたり、困惑したりする表情を映したりはしない。これがこの著者の好む、そして僕自身も大好きな控えめなユーモアだ。別に大げさに取り立てるべきことでもないからこれで十分だということだろう。

本作で描かれている時と場所の異なる四つのエピソードは、それぞれ一つずつ順番に四つの章として作られてはいない。エピソードの描写はたびたび中断する形で別のエピソードへ移りつづけ、終盤に畳みかけるような小さな大団円を次つぎともたらすという構成になっている。四人の運転手はもちろん互いに赤の他人であり、乗客であるエイメにとってもそれぞれ直接に関連のない独立した四つの出来事でしかない。これらをあえて混ぜ合わせて「起起起起、承承承承、転転転転、結結結結」のような構成にしたのが非常に上手くいっている。僕がこの本を何度も飽きることなく読めてしまう根拠の一つにこの構成の仕方があるのは間違いないだろう。例えば、ある運転手とエイメとのあいだに生じた軋轢の解決にただちに取り組んでしまうのではなく、緊張関係を保留したまま別の運転手のエピソードへと場面転換することがじゅうぶんな間をもたらしていることは明白だ。ただ、このような入り組んだ構成は初めて読む読者にとって場面転換の直後、それがどこの国のいつのエピソードなのかわかりづらくなるというデメリットも当然あるだろう。作者はその点をよく承知していて、場面転換の最初の数回の箇所においては読者の注意を引くような工夫を凝らしている。転換の直前と直後のそれぞれのコマにおいて類似はしているがはっきり異なるとすぐに見て取れるものを配置することで、読者が否応なく場面転換に気付けるようになっている。もっとも、エピソード間の関連や時系列順などに特に意味があるわけではないので、注意深く識別しながらページをめくらなくても戸惑うことはないだろう。

圧縮 解放
左の引用画像は見開きの右側である59ページから。そのページをめくると右の引用画像の60ページへと続く

漫画というメディアとしての見せ方について本作で真っ先に目につくのは、圧縮と解放の連携とでも呼ぶべきコマ割りだ。描く対象をぎゅうぎゅうに押し込めたような窮屈なコマから一転、大きなコマを使ってほどよく対象の配置された余裕のあるレイアウトへの切り返しというようなことを作者はたびたびやっている。この時、描写の視点は必ず前者のコマで描かれた対象を含みつつ、後者のコマでは遥かに遠距離からの視点へと移動している。これによってさまざまな効果を生んでいる。作者がこの手法を重んじていて、なるべくここぞという箇所に用いようと計算しただろうことは僕には明白だと思える。なぜならこの手法は四つのエピソードの中でそれぞれ一回ずつ使用され、そしていちばん最後の締めくくりにもオチとして使用されるといった具合にバランスよく配分されているからだ。ロサンゼルスのエピソードでは、エイメが不愛想な運転手と期せずして打ち解けた直後、彼女が本音を吐露するセリフとともに描写の視点は車外へと瞬間移動する。天気は快晴、路上にほかの車が一台も見えない広々とした複車線を画面の奥へ向かって走る光景の朗らかさは、つい今しがたまでの車中の険悪な雰囲気と鮮やかな対照をなしている。この手法それ自体は別に珍しいものでも何でもなく、どんな漫画作品でも見かけるありふれたものに違いない。それでも本作で合計5回用いられているこの手法は、それぞれ微妙に異なった効果をもたらしていて少しもマンネリズムを感じさせない。

白黒の漫画としての美しさは、夜間にタクシーを走らせるパリのエピソードで際立っている。ベタ塗りとクロスハッチが適宜使われて夜の闇に渋滞の車の列が埋没することもなく、雨粒の降る線や落ちて跳ね返る描写、濡れそぼったテクスチャーの質感など実に手間がかけられている。車や建築物などに注目すると描線は粗削りで緻密な正確さはないかもしれないが、臨場感を損なうほどではない。

信号待ちをするパリのタクシー 信号が青になっても進まないパリのタクシー
34ページと35ページから

パリのエピソードではこの見開きのページが気に入っている。特に左ページの3コマ目の赤信号を描いた箇所から右ページの3コマ目の動かない渋滞に憤慨する運転手のコマの直前までの連続に注目してほしい。まず、(車から見て)信号が赤に変わる → 横断歩道の前で止まる車の列と信号が青に変わるのを待つ歩行者たち → 歩行者たちが横断歩道を渡る → (車から見て)信号が青に変わる → ごった返す交差点……という一連の流れだ。どのコマも動きを予期させるもの(信号の変化、立ち止まっている歩行者)か、実際に動いているもの(横断歩道を渡る歩行者の足取り)、あるいは動きたくても動けないもの(青信号なのに動けない渋滞の車の群)で成り立っていてリズミカルに感じる。そして続くコマは憤慨する運転手の姿を映してまるで巧くオチの付いた四コマ漫画のようだ。

客を乗せて走っている最中に新聞を読むジャカルタの運転手 気が動転するエイメ
38ページと39ページから。車とバイクのひしめき合う大渋滞の中、ハンドルの上でのんきに新聞を広げるジャカルタの運転手。エイメは初めて見る光景に気が動転する

人物の表情や身振り手振りなどの仕草は、場面に応じて微妙な感情の起伏を細やかに反映していて常に的確だ。気が動転して慌てふためくエイメの顔を描いた箇所では、ほかのページでは見られないデフォルメが施されているのを見て取れる。目が大きく見開かれ、黒目の部分が白抜きになり、歯が櫛のように真上から真下に下ろした線で表される……実はこういった常套的な表現を僕は通常あまり好まない。大げさで安直な表現の選択だと感じさせられるのが常だからだ。にもかかわらず、本書においては絶妙で巧くはまっているとしか言えない。単にキャラクターの動揺する様子をよく表せているというだけではなく、本書の中で見られるほかのありとあらゆる表現と整合性を保っていること、なおかつ決して必要以上に乱用されていないことがポイントだ。

エピローグに入る手前のページには、著者が2017年にワシントンDCでタクシーを利用した時のものと思われるレシートの写真が無造作に貼り付けられている。ことさら作品が実話であることを印象付け、主人公=著者だと読者が結論付けることをまったく厭わない姿勢が伺える。この事実は本編における主人公の扱い方と結びつけて考えると、ずいぶん割り切ったものだと感じられる。作中の主人公の描写の仕方は一言でいえば中立的で、照れや卑下やためらいが一切ない。もちろん尊大でも傲慢でもない。異なる考え方を持つ他者と衝突する際にも、主人公への同情や共感を促すような著者の私情の入り込む余地が微塵もない。エイメは単なる漫画のキャラクターの一人としてのみ描かれている。著者はやろうと思えばいくらでも注釈を施し、この時はこうだった、あの時は心の中でこう思ったなどと読者の印象を操作したり、自分自身の言動を擁護したりすることが出来ただろう。僕にとってエイメは本作の主人公として、そして自分自身を作中で取り扱う漫画家として、さらに著者の人物像そのものの反映として三重の意味で尊敬に値する。

主人公=著者だということの本作品における意味をここで三つの位相に分けて説明してみたい。一つ目はフィクションのキャラクターとしてのエイメの言動が立派なものであるということ。これはあくまで漫画家として必要な腕前を持ち合わせていれば取り合えず誰でも描くことは出来るという技術的な側面だ。二つ目はフィクションのキャラクターとしてのエイメを自分自身だという立場で取り扱う漫画制作者としての姿勢が中立的で潔いということ。これは著者が自分自身をどのように対象化しているのかということの反映であり、漫画の技法のうちにとどまる問題ではない。自分を対象化するということは読者の視線を意識せざるをえず、ひいては社会的な評価や裁定が下されることを覚悟しなくては出来ないことだ。主人公の扱い方が中立的だということの根拠の一つを具体的な漫画表現の面に即して言えば、それは実際に言葉に発することのない心のつぶやきを読者だけが知ることのできる形で提供するという手法をまったく採用していないことだ。それは欠如ではなく、読者に対して登場人物への能動的な判断や評価を促すための前提となっている。三つめはフィクションのキャラクターとしてのエイメの言動がおそらくかなりの程度で実話に基づいているということだ。紙とインクで再現されている以上は実話であれ架空のお話であれ、フィクションであるということに本質的に違いはない。また、本書で描かれている出来事が実際にあったことなのか、タクシーの中で交わされた会話が本物なのかどうか確かめるすべなどありはしない。疑いたければいくらでも疑えるが、あまり実りのないことに思える。先に挙げた二つの位相、すなわちフィクションのキャラクターとしてのエイメの言動が立派なものであるということ、そしてそれを自分自身だという立場で取り扱う漫画制作者としての姿勢の潔さの二つを併せて考えると、著者自身がまだ若いのによほど人間のできた人格者だと想像せずにはいられない。

四つのエピソードを扱う本編とは打って変わってエピローグのほうはだいぶ毛色が異なっている。空港で落ち合ったエイメと友人がそこからの移動の手段について二つの選択肢の一つを選ぶというだけのごく短いものだ。本編のほうで取り上げられた安全性の問題をふまえたものであることは言うまでもない。このエピローグは漫画というより漫画の形をしたプロパガンダに等しい内容で、ちょっと直視するのが恥ずかしい。主人公のエイメが、そして著者自身がタクシーの安全性についてどのように考えているのかということは、ここまで読み進めてきた読者なら承知済みのこと。あえて本書の最後の締めくくりにこんなしらじらしい会話でもって読者に念を押す必要があっただろうか? 僕には著者の善意が災いして蛇足を生み出したとしか思えなく、ちょっと残念だ。

読者による本作の評価の違いを左右する根拠の一つに、ころころと移り変わる四つのエピソードの構成の仕方をどう評価するのかという点があるだろう。前述したように場面転換のつなぎ方は序盤においてスムーズにやっているので混乱することはないとしても、それはあくまでつなぎ方のテクニックが初めてページをめくる読者に対して親切というだけのこと。例えば、ロサンゼルスのエピソードからパリのエピソードへ場面が切り替わるということは、単純に著者の視点の都合でやっている。僕は初め、主人公がタクシーに乗った時の出来事について次つぎと回想をしているのかと勘違いしたけれども、そうでないことは読み進めれば明らかになる。したがってロサンゼルスからパリのエピソードに場面転換するということそれ自体はプロットとして意味を持っているわけではない……。このことをネガティブにとらえるならば本作の評価は当然低くなるだろう。また、四つのエピソードに共通するテーマをどうとらえるのかということも作品の評価の分かれ道となるだろう。僕はこれまでさんざん繰り返したように「プライベートなもの」というキーワードで各エピソードを読み解いたけれども、当然のことながらそう解釈しない読者もいるだろう。「プライベートなもの」という呼び名を付けるかどうかという問題ではない。そもそも、僕が前述した「プライベートなものが尊重されるべき瞬間を浮かび上がらせて読者に対して説得力を持って訴えかける」図式が中心となっているエピソードは一つしかない。残りの三つにおいては部分的にそういう図式を読み取ることも出来るというだけに過ぎない。著者が四つのエピソードに共通して少なくとも表向きに打ち出していると言えるのは、せいぜい話相手へのリスペクトということくらいしかない。タイトルが「タクシー!」だから、タクシー運転手という職業へのリスペクトとして括れそうに思えるかもしれないが、実はジャカルタのエピソードでは主人公の話相手がタクシー運転手として登場する必然性が特にないし、パリのエピソードの運転手についても同様だ。僕自身は時と場所の異なる四つのエピソード、しかも実話の出来事に完全な作り物と同様のテーマとか統一性を求めるのがそもそも無理があるよと言いたい。本書が「プライベートなもの」の意外な価値を見出し、教えてくれたということだけでじゅうぶんポジティブに評価したい。