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   <updated>2010-09-02T10:00:17Z</updated>
   <subtitle>国内外の漫画を読んでレビューを書くウェブログ</subtitle>
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   <title>Wish You Were Here #1</title>
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   <published>2010-09-02T10:00:00Z</published>
   <updated>2010-09-02T10:00:17Z</updated>
   
   <summary>イグナッツ・コレクションの第三弾。Gli innocentiの英訳版。中年男が刑務所帰りの旧友と再会する機会を通じて、甥っ子とのあいだに交わすほんのひとときの共感を描いた短篇。</summary>
   <author>
      <name>Mochi</name>
      <uri>http://kosame.org/</uri>
   </author>
         <category term="Comics" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kosame.org/">
	<![CDATA[<dl class="caption" lang="en" xml:lang="en">
<dt><a href="/reviews/comics/wish-you-were-here-1-closeup.jpg" class="zoom" title="Wish You Were Here #1"><img src="/reviews/comics/wish-you-were-here-1.jpg" alt="Wish You Were Here #1: Cover" height="204" width="150" /></a></dt>
<dd><ul><li><cite>Wish You Were Here #1: The Innocents</cite></li>
<li>Author: Gipi</li>
<li>Publisher: Fantagraphics Books</li>
<li>Release: August 2005</li>
<li>Size: 29cm x 21.3cm</li>
<li>ISBN: 9781560977575</li>
<li>Format: Softcover</li>
<li>32 pages</li>
<li>$7.95</li>
</ul></dd>
</dl>


<h2 class="subhead">レビュー</h2>

<p>イグナッツ・コレクションの第三弾。 <cite lang="it" xml:lang="it">Gli innocenti</cite> の英訳版。中年男が旧友と再会する機会を通じて、甥っ子とのあいだに交わすほんのひとときの共感を描いた短篇。</p>

<p>話の舞台となるのはイタリアの田舎町。ギルおじさんが会いに行くヴァレリオは、刑事に対する殺人未遂で服役していた刑務所帰りの男。ヴァレリオはギルおじさんの若い頃の親友で、ともに暴力的な悪徳刑事によって青春時代を台無しにされた犠牲者とでもいうべき立場にある。アンドレアはギルおじさんの甥っ子であり、腕白盛りの純朴な子供。</p>

<p>ストーリーは、ギルおじさんが甥っ子のアンドレアを助手席に乗せて車を走らせ、昔話を挿みつつ、旧友のヴァレリオに会いに行くという、ただそれだけの内容。最後にヴァレリオがとんでもないことを仕出かそうとするんだけれども、未遂に終わるため、実質的に出来事らしい出来事は何も起きない話だと言える。普通に漫画を読むつもりで最後のページまで辿り着くとさすがに肩透かしを喰らったように感じ、物足りなく思わざるを得ない。このシリーズの次にあたる <cite lang="en" xml:lang="en">They Found the Car</cite> は一読したところ、#1とは直接に関係のない独立したエピソードのように見える。はっきり無関係と言い切れないのは、登場人物の一部が互いによく似ているからだ。ひょっとしたら同一の登場人物を使っているのかもしれないし、たまたま似ているだけで別人なのかもしれない。少なくとも、#2を読もうが読むまいが#1の内容の理解には何の影響もないということは断言できる。したがって、この作品はこの32ページの内容だけで評価しなければならないということになる。</p>

<p>肯定的に評価するのであれ、否定的になるのであれ、注目すべきなのはページの大半を占めるギルおじさんと甥っ子との会話がどう描かれているかということと、それによって表されるお互いの関心や配慮を伴なう緊張関係がどうなっているかということに尽きるだろう。このふたりの関係に注目する上で重要なポイントとなる作品設定は、一つはふたりが親子ではなく、あくまでおじと甥という関係であることだ。直接に子供をしつける立場にある親と違っておじの立場にはある程度の遠慮がある。人による、家庭によると言ってしまえばそれまでだけれども、それなりに距離感があるのが普通だろう。そしてもう一つは、刑務所帰りのヴァレリオへ会いに行くという計画が以前から約束されていたものではなく、直前になって唐突に決まったものであるということだ。もともとギルおじさんは甥っ子を刑務所帰りの旧友に会わせたいなどと考えてなく、甥っ子のほうでも会ってみたいとせがんだわけではない。ギルおじさんにとって旧友と再会するのに甥っ子を同伴しているということが偶然によるものであり、どちらかと言えば消極的な状況だということが、かえってこのおじと甥っ子ふたりの共感を効果的に演出するうえで役立っている。</p>

<p>おじと甥という関係は、親子関係にありがちな直接的で押し付けがましい態度を避ける言わば緩衝材のように働いている。車中でアンドレアはギルおじさんに対してこれから会いに行くヴァレリオについての質問をいくつも投げかける。無邪気な子供らしく、好奇心に任せて発せられる質問には遠慮のないものもあり、読者の視点からはギルおじさんの神経に触りかねないんじゃないかと感じられる。親の立場であったならば有無を言わせずはねつけたかもしれない質問に答えているのは、甥っ子を預かっている身として自然な態度とも思えるし、ギルおじさんの寛容な性格の反映だとも思える。もしアンドレアを隣りに載せて車を走らせているのがおじではなく、父親だったならどうだろうか？ 若い頃の理不尽な体験への共感を求めたかもしれない。刑務所帰りの男の話を聞くことが息子の社会勉強になると考えたかもしれない。ひょっとしたら父親であってもギルおじさんと同様の態度を取ったかもしれない。いずれにせよ、ギルおじさんが甥っ子に自分たちの若い頃の不幸な境遇をよく理解し、同情してほしいなどとは初めから考えてなく、ある程度の距離をおいて接しているということが話のすじの上であとあと重要になってくる。</p>

<p>その日、ギルおじさんは甥っ子を連れて遊園地に遊びに行くつもりだったんだけれども、直前にヴァレリオから電話をもらったことで急遽予定を変更している。車中でのふたりの会話がヴァレリオとギルおじさんの若い頃についてばかりなので目立って意識されにくいことかもしれないが、これはよく考えると奇妙なことだ。普通、子供が遊園地へ連れて行ってもらう約束を急に変更されて素直に納得するだろうか？ それに、いくらかつての親友だとはいえ、殺人未遂で服役していた男と会うのに無関係の甥っ子を連れて行くというのは、ちょっと子供に対する配慮に欠けるんじゃないだろうか？ こういった疑問に対する回答はそのまま、このアンドレアという甥っ子とギルおじさん双方の表層的な印象とは異なる奥に秘めた心情を理解することにつながる。アンドレアはギルおじさんやヴァレリオについての質問をいくつもするけれども、あくまで子供の素朴な好奇心によるものであって、決して積極的にヴァレリオに会いたいと思っているわけでも、おじさんたちの過去について知りたいと思っているわけでもないというように、表情といい、態度といい、関心の度合いが曖昧なままに描かれている。しかし、遊園地行きを変更されても特に不平一つ言うわけでもないということを考えあわせると、実際にはかなり興味津々だったに違いないと考えるべきだろう。ギルおじさんはヴァレリオとは違って刑務所に入る羽目には至らなかったけれども、それでも世間一般のまっとうな社会人とは違った人生を歩んでいるらしく、その影響が見て取れる。一言で言えば世間ずれしているということなんだけれども、これは甥っ子への配慮という意味でも、逆に配慮が足りないという意味でも、双方の意味でずれているというところが独特でステレオタイプを外れておもしろい描写になっている。傑作なのが、甥っ子にスナック菓子を買い与えた際に、一日どれくらいスナック菓子を食べるのか真面目に尋ねていることだ。つまり、子供を連れて歩くのにどれくらいスナック菓子を食べさせるのが適切かわからなくて不安になってしまうほど子供の扱いになれてなく、世間ずれしているということだ。はっきり言葉に出して甥っ子にいろいろとどうしてほしいか尋ねているところを見ると、子供への配慮に苦心しているように思えるけれども、それでもやはり刑務所帰りの男と会うのに甥っ子を連れて行ってしまうのはどうかしていると言わざるを得ない。ドライブの途中でアンドレアの母親に電話をかける場面があって、向こうが何を言っているか正確にはわからないけれども、おそらくアンドレアを刑務所帰りの男と会わせるということに驚き、心配しているように見て取れる。それが普通の反応じゃないだろうか。</p>

<p>昔話の中で語られる刑事の乱暴な振る舞いを除けば、特に変わった出来事が起こるわけでもなく、起伏に乏しい盛り上がりに欠ける話のすじということになる。しかし、あえてここに一本通った話のすじを見いだそうとするならば、そのクライマックスは再会したヴァレリオが予期せぬ行動を取った際のギルおじさんと甥っ子の交わした会話にある。ふたりともおじと甥という、本来ならばある程度の遠慮があるべき関係を超えてヴァレリオの境遇への率直な思いを露わにしていて読者を驚かせる。ヴァレリオを媒介にしてふたりの本音が導き出されている。ヴァレリオが取った行動そのものは肩透かしに終わるので出来事として中途半端だと言わざるを得ないけれども、ここだけは鮮烈な印象を残すところだ。</p>

<p>絵について言えば、車中での会話の合間に挿まれる外の風景描写が、さりげないようでいて実はかなりキャラクター描写の上で意味を持っているように思える。甥っ子の質問に答えるギルおじさんの台詞を載せる際に、車内の様子を背景にしてコマに収めるのではなく、遠く離れたところから走る車を捕らえた視点でフキダシを出しているのは含みのある回答を意味していると思える。例えば、本当はそうではない、あるいはそう単純には言い切れないといった含みを持った回答のように思える。続いて台詞のない風景描写のコマが来るとその含みにさらに念を押していると思えてならない。また、際どい質問のあとで回答がないまま風景描写のコマを挿み、続いて場面転換をしている箇所では沈黙がそのまま回答になっている。ただし、こういったことは決してあからさまではなく、それとなくひっそりと行われる程度に留まっている。本当に何でもない、削除しても作品を理解する上で何の支障もないと思える風景描写のコマもいくつもある。そういったなかでさりげなく、示唆的な表現として意味を持っている。キャラクターデザインは手っ取り早く的確なもので、特に再会したヴァレリオがよく出来ている。ヴァレリオのやつれっぷりは凄まじく、ギルおじさんと同じ年頃とは思えず、しかもただ老けているのではなく、顔のパーツの歪み具合がそれまでに受けてきた仕打ちを想わせて恐ろしくなるほどだ。</p>

<p>初めて読んだときに少し失望したのは事実だけれども、作者の意図するところを汲むつもりで念入りに読み返すと、この作品はかなりの傑作なんじゃないかと思えてくる。表面的に描かれている誰が何をどうしたといった出来事よりも、人の心の内側を重視するスタイルが少女漫画的だという意見は僕が勝手に思っていることなので別に同意は求めないけれども、その前提に立ってよければ、この漫画は同じ作者の <cite lang="en" xml:lang="en">Garage Band</cite> とともに、僕がこれまで読んできた海外の漫画の中で数少ない少女漫画的な感性に訴える作品だといっていいんじゃないかと思う。</p>]]>
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   <title>The Stuff of Legend, Book 1</title>
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   <id>tag:kosame.org,2010://1.278</id>
   
   <published>2010-07-29T09:45:00Z</published>
   <updated>2010-07-29T09:45:46Z</updated>
   
   <summary>魔物に連れ去られた少年を救い出すためにおもちゃの一行が異世界を探索するという内容のダークファンタジー。ストーリーの基本的なアイデアや多くのキャラクターの性格設定などはありふれたもので、お世辞にもオリジナリティーに溢れているなどとは言えない。しかしながら、作者は自由自在の構図と的確で緻密な表情の描写によって巧みに読者を作品世界に引きずり込み、飽きさせることなく話を紡いでいく。期待される読者の先入観を利用した筋立てにはほとんど仰天すると言っていいくらいの驚きがある。また、虚構の作品世界が層を成すように異なった小世界を持っていて、めくるめくような没入感を体験させてくれる。表紙を一瞥して子供向けの童話のような漫画だろうと高をくくった読者の度肝を抜くに違いない一冊だ。</summary>
   <author>
      <name>Mochi</name>
      <uri>http://kosame.org/</uri>
   </author>
         <category term="Comics" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kosame.org/">
	<![CDATA[<dl class="caption" lang="en" xml:lang="en">
<dt><a href="/reviews/comics/the-stuff-of-legend-1-closeup.jpg" class="zoom" title="The Stuff of Legend, Book 1"><img src="/reviews/comics/the-stuff-of-legend-1.jpg" alt="The Stuff of Legend, Book 1: Cover" height="149" width="150" /></a></dt>
<dd><ul><li><cite>The Stuff of Legend, Book 1: The Dark</cite></li>
<li>Writer: Mike Raicht &amp; Brian Smith</li>
<li>Artist: Charles Paul Wilson III</li>
<li>Publisher: Random House/Villard</li>
<li>Release: April 2010</li>
<li>Size: 20.3cm x 20.3cm</li>
<li>ISBN: 9780345521002</li>
<li>Format: Softcover</li>
<li>128 pages</li>
<li>$13.00</li>
</ul></dd>
</dl>


<h2 class="subhead">レビュー</h2>

<p>魔物にさらわれた少年を救い出すためにおもちゃの一行が異世界を探索するという内容のダークファンタジー。ストーリーの基本的なアイデアや多くのキャラクターの性格設定などはありふれたもので、お世辞にもオリジナリティーに溢れているなどとは言えない。しかしながら、作者は自由自在の構図と的確で緻密な表情の描写によって巧みに読者を作品世界に引きずり込み、飽きさせることなく話を紡いでいく。期待される読者の先入観を利用した筋立てにはほとんど仰天すると言っていいくらいの驚きがある。また、虚構の作品世界が層を成すように異なった小世界を持っていて、めくるめくような没入感を体験させてくれる。表紙を一瞥して子供向けの童話のような漫画だろうと高をくくった読者の度肝を抜くに違いない一冊だ。</p>

<p>物語の背景となるのは1944年のブルックリン。夜更けに部屋へ忍び込んできたブギーマンという魔物に少年がさらわれるところから物語は始まる。そして、少年が日頃遊んでいた部屋の中のおもちゃたちが救出のためのチームを結成し、ブギーマンのいるザ・ダークという世界へ旅立つというのがこの本のプロローグ。このプロローグ及び第一章を読めばほとんどの読者は、ある二つの映画作品との類似点に気づかずにはいられないだろう。おもちゃが人間の目を盗んで言葉を話したり、動き回ったり、さらには秘密の目的のために行動するという設定はアニメ映画の<cite>トイ・ストーリー</cite>そのものだ。さらに、少年救出チームのメンバーはトイ・ストーリーの主立ったキャラクターたちと部分的に種類までかぶっていてとても偶然の一致とは思えず、設定を借りたと言っていいんじゃないかと思う。もう一つ思い出される映画は<cite>プライベート・ライアン</cite>で、これは第一章で繰り広げられる戦争がノルマンディー上陸作戦を模していること、さらに一行の目的が戦闘に勝利することよりも味方の救出にあるということがその理由だ。</p>

<p><cite>トイ・ストーリー</cite>はともかく、<cite>プライベート・ライアン</cite>との類似点については実は模倣でも何でもないもっともらしい根拠がある。それは少年が連れ去られたザ・ダークと呼ばれる世界がどのような論理でもって造られているのかということに関係している。ザ・ダークはいわゆる死後の世界ではなく、魔物の巣食う闇の世界というわけでもない。少年が日頃おもちゃを使って遊んでいたときの空想の世界がそのまま反映されている。まだ第二次世界大戦が終結する以前、父親がヨーロッパ戦線へ出征している少年の心の中でノルマンディー上陸作戦がどのような意味を持っていたかということを考えれば、そして魔物にさらわれた少年をおもちゃたちが救出するという設定を取るならば、<cite>プライベート・ライアン</cite>との類似は必然的と言えるんじゃないだろうか。</p>

<p>少年の日頃の空想世界を反映しているというこのザ・ダークの特徴は、第二次大戦当時の状況に則して客観的な裏付けがあると同時に、一方では恣意的でたわいのない誤謬も含んでいる。第一章でおもちゃの一行とザ・ダークの軍勢が戦闘を繰り広げる場面は明らかにノルマンディー上陸作戦を模しているにもかかわらず、章のタイトルは <span lang="en" xml:lang="en">The Battle of Brooklyn Creek</span> となっている。父親が兵士として赴いているノルマンディーと、少年の住む地元を流れている河川が直に続いているという矛盾が、別に矛盾として意識されることもなく構成されているということは子供の心の中の世界ならではのものであり、このザ・ダークという世界の特徴が持つおもしろい側面だ。第二章の舞台となる街を支配しているのが一人の市長で、肩書が市長であるにもかかわらず、警察権と裁判権を併せ持ち、法の濫用でもって専制君主のように振舞っているということも子供の空想ならではの設定ということなのかもしれない。</p>

<p>ザ・ダークはこの世のどこでもない幻想的な世界のように見えるけれども、そこにおける死は取り返しのつかない本当の死として扱われている。つまり、現実世界で人間が死んだらそれっきりであるのと同様に、ザ・ダークでおもちゃが死ねばそのおもちゃはそのまま現実世界に帰って来れないということになっている。おもちゃというものは現実世界では命を持たないただの物であって、本来は生や死など問題になるはずがない。作者はザ・ダークにおいてまるで人間のように生き生きと活動するおもちゃたちに対して、現実世界でのおもちゃの扱われ方と比較する視点をたびたび持ち込むことによって、ともすればおもちゃが生と死の意味に目覚めるんじゃないかと期待させるような瞬間を盛り込んでいる。実際には作者はこの点にそれほど深入りしないんだけれども、まるで洗脳された患者が目覚める瞬間に立ち会うかのようなちょっとしたスリルがある。</p>

<p>第一章のストーリーは前半と後半で緊張の度合いがまるで異なる。おもちゃの一行がザ・ダークの軍勢を相手に繰り広げる戦争は全員入り乱れての取っ組み合いのようなものであり、数の上で圧倒的に不利であるにもかかわらず、勝利を収めてしまう。ほとんどおとぎ話のように牧歌的でリアリティのない戦争だ。しかし、勝利の余韻も束の間に不意打ちのような一撃がおもちゃの一行と読者を襲う。これは子供向けの物語のお約束を裏切るショッキングなものであり、この出来事一つをもって「ダークファンタジー」と呼びたくなる所以だ。そして、ブギーマンがおもちゃの一行の中の一人に対して誘惑し、裏切りの取り引きを持ちかけるというのが第一章の引きであり、第二章を通してクライマックスまで牽引するサスペンスの根拠になっている。この漫画では、外からは窺い知ることの出来ない個別のキャラクターの内面を描くということを一切やらないので、本当に最後の最後まで裏切りが行われるのかどうかわからない緊迫した筋立てになっている。第二章は人びとが永遠に等身大のすごろくをやり続けるホップスコッチという奇妙な街が舞台となる。おもちゃの一行が専制的な市長の支配下に置かれ、絶体絶命的な状況をどう切り抜けるのかということが問題になる。第一章が力による行軍であったとするなら、第二章は知恵による革命とでも言うべきもの。実際に困難な状況を切り抜ける上で用いられるアイデアは大したものではないけれども、ザ・ダークの中のさらに小さな街の中という閉塞した環境からの逆転劇は拍手喝采ものの爽快感がある。</p>

<p>登場するキャラクターは味方の一人を除いて決して個性的でもなく、よく練られているとも思えず、むしろこの手のファンタジーやおとぎ話にとって類型的といえるものが揃っている。味方の面々について言えば、ある者は血気盛んで猛々しく、ある者は思慮分別に欠け、享楽的であるというように、キャラクターのあいだでの違いという意味ではそれなりに描き分けがされてはいる。しかしながら、個別のキャラクターについて深く掘り下げるということをせず、複雑な側面などを垣間見る機会がないので、どのキャラクターもかなり素朴で読んでいて予測のつく範囲の内での言動しか見られない。敵のキャラクターについても同様。親玉のブギーマンが手下の落ち度を咎めるにあたって極端な仕打ちをためらわない、よくある非情の悪役の典型であれば、下っ端のキャラクターたちも権力庇護に甘んじて増長するだけのよくある悪の手下の典型でしかないと言える。</p>

<p>少年救出チームのことをこれまで便宜的に「おもちゃの一行」と書いてきたけれども、実際にはおもちゃだけではなく、部屋の中で少年と関わりの深いものたちが参加している。したがって、少年の家の飼い犬も含まれている。そして、チームの中にはパーシーという名前の豚の貯金箱もいて、これこそが最も巧妙で効果的に使われているキャラクターだ。巧妙というのは、これが作者の考案によるオリジナルのキャラクターではなく、ありふれた雑貨であるにもかかわらず、その特徴を大いに活かす形で筋立てにおいて重要な役割を担っていて、ほかのキャラクターでは替えの利かない立場にあるということだ。豚であり、同時に貯金箱でもあるという二つの特徴を併せ持っていることは、臆病や貪欲などのドラマ作りの上で役立つ性格にもっともらしい根拠を与えている。これが独自の考案に基づくキャラクターだったならば、ストーリー上の必要に応じて用意されたただの恣意的な設定のキャラクターともなりかねない。このパーシーの立場は、芝居の役柄に対する役者の関係で言うところの「はまり役」のようなものだ。作者がこのストーリーに必要なキャラクターとしてこの豚の貯金箱を用意したのではなく、むしろ逆に、この豚の貯金箱を十分に活かすための筋立てをストーリーの中に用意したんじゃないかと思えるほどに寸分隙なくはまっている。</p>

<p>絵はこの漫画にとって間違いなくストーリー以上に重要な役割を果たしていて、話の筋の緩急に拠らず、絶えまなく読者を惹きつける魅力に満ちている。実際、読み終わったあとで思い出してみるとおもしろさの割に話の筋があまりに単純だということに驚かされる。大して重要ではない場面でも退屈することなくいくらでもコマの中に視線が引き寄せられるのはどうしてなのか、自分でもずいぶん不思議に思った。正直言って絵の分析は苦手なのではっきりこうだということは言えないけれども、その根拠をいくつか考えてみた。セピア調の色彩で統一されたページは明暗が見やすさのアクセントになっていて、特に顔の表面のわずかな凹凸まで陰影を施す丁寧な描き込みが臨場感を増している。これは色を自由に使えないセピア調ならではのことなのかもしれないが、いくつかのコマでは自然な光の当たり具合とは思えないライトアップのようなことをあまり大げさではない程度にこっそりやっていて、ドラマチックな演出に成功している。初めて表紙の絵を見たときには、この作品はキャラクターから背景まで徹底的に描き込むスタイルで、ひょっとしたら見た目に繁雑で読みにくいんじゃないかと心配したけれども、実際には逆でこれほどスラスラ読めてしまう漫画も珍しい。背景はよく描き込んでいるというよりはむしろすっきりしていると言っていいくらいだ。読みやすさの根拠としては、キャラクターの輪郭が比較的シンプルな線で縁取られていて、さらに隣接する縁の部分は陰影を調節してほかのキャラクターや背景と混ざらないようによく配慮されていることなどが挙げられる。絵柄については、何といってもキャラクターの表情の表現が巧みで、特に豚のパーシーの百面相とでも言うべき自在な感情表現が凄い。体型も目鼻口の並びも豚そのものだけれども、目つきが人間そのもので写実的な描写がこの点に極まっている。ある場面では、単なる表情の写実的な描写を超えて、行為の意味するところのメタファーを、懺悔や改悛をモチーフとしたキリスト教絵画のように荘厳な趣きとともに描いている。悪役として登場する一部のキャラクターたちの意地の悪い誇張された笑顔は、まるでヒエロニムス・ボスの絵から切り取ってきたかのようだ。写実的ということではこれよりもっと緻密で写実的な絵を描く漫画家はほかにいくらでもいるだろう。しかし、漫画的なデフォルメと写実性の折合いということではこの漫画のスタイルはほとんど頂点に位置しているんじゃないかと思える。おもちゃの一行はザ・ダークにおいては、表紙に描かれているようなありのままのおもちゃの姿と違って、それぞれ生物として現実化された姿で描かれている。実は表紙の絵はほとんどギャグだと言ってもいいくらいで、これがこの作品の数少ないユーモアの元になっている。</p>

<p>僕がふだん海外の漫画を読むときはまず手に取って最初の何ページか読んでみて、おもしろそうか、それほどでもないか、おもしろそうだけどじっくり腰を据えて時間のあるときに取り組むべきか、ただちに本棚の肥やしにするべきかなど、大雑把な見当をつけておくのがいつもの習慣であって、どんなにおもしろそうな本でも初めて手に取ってそのまま読み切るということはしない。しかしながら、これに関しては例外であまりに内容がおもしろく、しかも読みやすいので途中で中断することが出来なくなってしまい、一息に最後まで読み耽ってしまった。ほぼ間違いなく僕にとってこれが今年の一冊ということになるだろうと思う。</p>]]>
   </content>
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   <title>Sarah Palin Rogue Warrior</title>
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   <published>2010-06-27T05:45:00Z</published>
   <updated>2010-06-27T05:49:57Z</updated>
   
   <summary>元アラスカ州知事であり、副大統領候補にもなったサラ・ペイリンをモチーフとしたアンソロジー。表紙を見ての通り、政治家のまじめな評伝の類ではなく、実在の人物をひたすらちゃかした悪ふざけ的なコミックブック。絵柄が本人に似せて描かれているというだけではなくて名前もそっくりそのまま使っている。こんな企画に本人から許可が下りるはずもなく、きっと勝手にやっているんだろうが、ごまかしたり、逃げを打ったりするそぶりすらないのがすごいところだ。</summary>
   <author>
      <name>Mochi</name>
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         <category term="Comics" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
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	<![CDATA[<dl class="caption" lang="en" xml:lang="en">
<dt><a href="/reviews/comics/sarah-palin-rogue-warrior-closeup.jpg" class="zoom" title="Sarah Palin Rogue Warrior"><img src="/reviews/comics/sarah-palin-rogue-warrior.jpg" alt="Sarah Palin Rogue Warrior: Cover" height="235" width="150" /></a></dt>
<dd><ul><li><cite>Sarah Palin Rogue Warrior</cite></li>
<li>Artist: Ben Dunn, Fred Perry, et al.</li>
<li>Publisher: Antarctic Press</li>
<li>Release: April 2010</li>
<li>Size: 26cm x 16.8cm</li>
<li>Format: Softcover</li>
<li>32 pages</li>
<li>$3.99</li>
</ul></dd>
</dl>


<h2 class="subhead">レビュー</h2>

<p>元アラスカ州知事であり、副大統領候補にもなったサラ・ペイリンをモチーフとしたアンソロジー。表紙を見ての通り、政治家のまじめな評伝の類ではなく、実在の人物をひたすらちゃかした悪ふざけ的なコミックブック。絵柄が本人に似せて描かれているというだけではなくて名前もそっくりそのまま使っている。こんな企画に本人から許可が下りるはずもなく、きっと勝手にやっているんだろうが、ごまかしたり、逃げを打ったりするそぶりすらないのがすごいところだ。</p>

<p>全ページの大半を占めているのはイラストであり、漫画の形を取っている作品は三つだけ。イラストはサラ・ペイリンをコミックや映画のヒロインに模したものや、彼女をかたどった架空のキャラクター商品のイメージなどの寄せ集めで成り立っている。気に入ったページを切り離して自分の部屋に貼る読者がいるのかどうかは知らないが、どのイラストも「ピンナップ」という扱いになっている。絵そのものはプロの仕事であって、どうこういうつもりはないけれども、見ておもしろいものではない。アラスカという土地柄と銃に象徴される好戦的なイメージでもってちゃかしているだけだからだ。これを風刺と呼んでしまったら真面目に政治風刺の一コマ漫画を描いている漫画家に失礼なんじゃないだろうか。</p>

<p>漫画作品のうち一つは <cite lang="en" xml:lang="en">Li'l Palin</cite> という四コマ。支持率低迷に悩むオバマがカウンセラーのペイリンに相談をするが、煙に巻かれて料金だけ請求されるという内容を子供化したキャラクターデザインでもって描いている。ピーナッツのパロディということなんだろうけれども、まあおもしろくはない。最も風刺漫画的なことをやっているのが <cite lang="en" xml:lang="en">Candidates of the Dinner Table</cite> で、これはオバマ大統領やヒラリー・クリントン、そしてジョン・マケインといった政治家たちとペイリンがテーブルを囲んで議論をするという内容。ペイリンの選挙演説へのツッコミから始まった政治的な議論のはずがテーブルトークRPGに摩り替わってしまい、それにもかかわらず一同が大まじめに語りつづけるというところにユーモアの土台がある。実際にどうなのかは知らないけれども、これはサラ・ペイリン本人の使う語彙にアラスカの自然や野生動物などに関するものが元から多くあって、違和感なくロールプレイングゲームの話に繋げられるということが前提になっているんだろうと思う。そしてモデルとなった人物たちの現実の政治の世界での発言が剣と魔法の世界観に置き換えて引用されることによってギャグになっている。これは数え上げればかなりの量になるに違いない。こういった政治家の発言や謎言はウェブで調べればいくらでも出てくるけれども、アメリカの政治の世界に疎く、正直言ってあまり興味もない僕には実際にひとつひとつ調べてみる気にはなれない。この作品で残念なのは絵の使いまわしがひどいということ。見開きの左右のページでまったく同じコマ割りで同じ絵を使い、台詞だけ入れ替えるということをやっている。絵がせっかくのユーモアを活かしきれていない。</p>

<p>一番の目玉は <cite lang="en" xml:lang="en">Open Season</cite> で、これは劇画といってもいいほどの荒くてくどい絵柄でもってアラスカでの知られざるサラ・ペイリンの活躍を描いたギャグ漫画。くだらないと言えばくだらないし、バカバカしい内容だけれども、実際のところ、今年これ以上なかったというくらいに爆笑してしまった。ユーモアが発想の意外性とページをめくった直後に来る大ゴマの迫力に依存しているので、読み返して何度でも楽しめるというものではない。まあ、忘れた頃に引っ張り出してきて読めばまた笑えるだろうとは思う。少なくとも、僕にとってはこれだけでも$3.99の値打ちはあった。</p>]]>
   </content>
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   <title>Spell Checkers, Vol. 1</title>
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   <published>2010-06-17T10:00:00Z</published>
   <updated>2010-06-17T10:00:47Z</updated>
   
   <summary>魔法の力を悪用してキャンパスに我が物顔で君臨し、学校生活を満喫していた三人娘が、ある日自分たちへの匿名の誹謗中傷が相次いだことを受けて、その犯人探しに躍起になるという話。ストーリーを作る上でのアイデアと作画の両方で日本の漫画の影響を強く受けていることは明らかで、日本人の読者としては良くも悪くもその点を基準に評価せざるを得ない作品ということになる。</summary>
   <author>
      <name>Mochi</name>
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         <category term="Comics" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kosame.org/">
	<![CDATA[<dl class="caption" lang="en" xml:lang="en">
<dt><a href="/reviews/comics/spell-checkers-1-closeup.jpg" class="zoom" title="Spell Checkers, Vol. 1"><img src="/reviews/comics/spell-checkers-1.jpg" alt="Spell Checkers, Vol.1: Cover" height="223" width="150" /></a></dt>
<dd><ul><li><cite>Spell Checkers, Vol. 1</cite></li>
<li>Writer: Jamie S. Rich</li>
<li>Artist: Nicolas Hitori De &amp; Joëlle Jones</li>
<li>Publisher: Oni Press</li>
<li>Release: April 2010</li>
<li>Size: 18.9cm x 12.7cm</li>
<li>ISBN: 9781934964323</li>
<li>Format: Softcover</li>
<li>152 pages</li>
<li>$11.99</li>
</ul></dd>
</dl>


<h2 class="subhead">レビュー</h2>

<p>魔法の力を悪用してキャンパスに我が物顔で君臨し、学校生活を満喫していた三人娘が、ある日自分たちへの匿名の誹謗中傷が相次いだことを受けて、その犯人探しに躍起になるという話。ストーリーを作る上でのアイデアと作画の両方で日本の漫画の影響を強く受けていることは明らかで、日本人の読者としては良くも悪くもその点を基準に評価せざるを得ない作品ということになる。</p>

<p>この漫画は作画の分担の仕方がちょっと変わっている。二人のアーチストが担当しているんだけれども、よくあるようなペンシラーやインカーといった作業の手順で分けているのではなく、章ごとに受け持ちを決めているわけでもない。主役の三人娘の現在の出来事を描く場面ではニコラ・ヒトリ・デが、幼少時の回想を描く場面ではジョエル・ジョーンズがそれぞれページの全体を描いている。ストーリーの内容にまで踏み込んで絵の分担を決めているのはかなり珍しいことなんじゃないだろうか。ふたりで分担とはいっても、ジョエル・ジョーンズは本編の中で合計17ページしか描いていない。これは三人の過去を描いた場面がそれだけ少ないということで理解できるんだけれども、意外なことにジョエル・ジョーンズは表紙の絵も描いている。ちなみに表紙の三人娘は幼少時ではなく、ストーリー上の現在の姿で描かれていて、つまり本編では一度も見ることの出来ない姿ということになる。さらに突っ込ませてもらうと、上からリンゴが降ってくるというこの図は本編の内容とまったく関係がない。</p>

<p>三人にとって魔法は主に学校の成績を有利に操作するための不正の手段として使われているんだけれども、作品のテーマの視点から見れば、魔法は彼女たちの自分勝手で自惚れがちな性格を増幅して表すための手段であるように思える。そもそも、魔法を使えるようになったのは気のいい魔法使いのおばさんからスペルブックを盗んできたことがきっかけであり、努力や研究の賜物などではない。遅かれ早かれ彼女たちへの批判的な視点の登場を、すなわち彼女たちに自省を促すような対抗的要素の登場を期待するのが常識的な読みと言えるんじゃないだろうか。その対抗的要素というのは、魔法による不正を告発する他の生徒かもしれないし、教師かもしれない。ひょっとしたら三人のうち誰かの心に芽生える良心の咎めかもしれない。いずれにせよ、女の子三人が魔法を使って校内で幅を利かせてただひたすら調子に乗ってるだけでは物語の体をなさないだろう。ところが妙なことに、この巻の最後まで読み進めた時点ではそういった批判的な視点がぼやけてしまっている。匿名の中傷の主は、そういった批判的な役割を期待させるものとして登場しながら結局は腰砕けでお茶を濁している。この点で、彼女たちが魔法を使うということへの作者の姿勢が曖昧になってしまい、何をやりたいのかよくわからない漫画になってしまっている。</p>

<p>ストーリーは誹謗中傷の発覚からその真犯人の追及で成り立っていて、それに付随する小さな出来事を除けばほかにこれといって何も起きないと言っていい。学校の中で魔法を使ったことが表沙汰になれば大問題になるじゃないかと思うかもしれないが、実は三人が魔法を使っていることは生徒にとって周知の事実であり、しかもいざというときには魔法で人の記憶を消去することもできるので教師の目すら問題にならないという事情がある。したがって誹謗中傷の主が三人娘に敵対するということがこのストーリー全体の根幹をなしているわけなんだけれども、この敵対関係はかなりしょうもない理由に基づいている。本来ならば相応の真剣な理由で持って敵対すべき悪役が、過去のバカバカしいほど瑣末な出来事を根に持って主人公への復讐を期して登場するというのは……これはやはり日本の漫画やアニメに影響されたアイデアなんじゃないだろうか。具体的な例は思い浮かばないが、少年漫画に山ほどありそうなネタだ。さらに、この敵対者が三人と同様に魔法を使うことができる理由も作者による悪ふざけのようなもので呆れてしまう。綴るという意味のスペルと呪文のスペルをかけたものであり、要するにストーリーの根幹からしてジョークであり、タイトルもまたジョークそのものだ。</p>

<p>筋立ては終始一貫して三人娘の性格描写を中心にしたものになっている。誹謗中傷の犯人探しから話が始まっている割に、謎解きや推理の要素はない。三人がそれぞれ身内の裏切りを疑うことはあっても、読者に対してはそういう含みを持たせた描き方を一切しないので犯行が外部のものであることは明白であり、心理的サスペンスにもなっていない。幼少時の回想の場面で三人の結束を誓う魔法の儀式が描かれているんだけれども、その当時の痛ましいほどの真剣さは、反証があるにもかかわらず身内の裏切りを疑ってやまない現在の脆い友情とは対照的だ。また、三人が身内を疑い、対抗的な態度を取る理由としてジョナスという少年が絡んでいる。三人ともジョナスが自分を選ぶに違いないという自信に満ちていても、実は誰一人として本当にジョナスを気に入ってるわけではなく、それでいてこの少年をめぐって本気で対立するという点に彼女たちの自惚れと利己心が顕れている。総じて主人公三人に対してずいぶんシニカルな筋立てになっている。</p>

<p>この巻に収録されているストーリー全体の構成は、あまりテーマと噛み合っていないように思える。一つは、三人娘の過去と現在とのあいだの関連付けが甘いということにある。魔法を使えるようになる前、そして使えるようになってしばらくのあいだの幼少時の出来事が、三人のうちの誰かによって回想されているというよりは、むしろ作者の立場から直接に読者へ向けて呈示されているように見えてしまうということだ。だから魔法を使うことができなかった過去は、魔法でやりたい放題の現在を反省する材料にもならなければ、もし魔法が使えなくなったらという未来を憂慮するきっかけにもならない。ある意味そうならざるを得ないのは、やはりページ単位で過去と現在を分離してしまっている点にあるんじゃないだろうか。魔法を使う瞬間にフラッシュバックを挿入してためらいや不安を表すといったことは、この作品のような作画の分担ではやりようがない。もう一つは、この巻のストーリーが終わった時点で主役三人の置かれている状況が振り出しに戻ってしまっているという点にある。変わったことといえば脇役のキャラクターが一人増えたことくらいで、三人が魔法を使いつづけることへの障害は何もない。読者の視点からは、再び三人が魔法を悪用して不正と傲慢の限りを尽くす学園生活がひたすら続くだけとしか思えない。次の巻への引きもない。ここで最初の巻を締めくくるくらいなら、匿名の敵対者との対決にけりを付けずに次の巻へ引き伸ばしたほうがマシだっただろうと思える。</p>

<p>主役三人のキャラクターは饒舌で、作者が会話のやりとりにかなり力を入れていることが見て取れる。互いにおちょくったり、罵ったりする際の語彙やまわりくどい言い回しにユーモアがあって、これがこの作品の一番の売りなんじゃないかとさえ思える。また、学校内のヒエラルキーで頂点に君臨する彼女たちの傲慢な気質と、コミック・ナードやいわゆるエモなどの趣味との絡みが描かれる部分があり、おそらくはステレオタイプをなぞったものに違いないが、現地の青少年の感性などに疎い僕にはなかなか新鮮で楽しめた。ただし、口の悪さという点で主役三人は似通っていて大差がなく、自惚れがちな性格も含めてあまり個性のないキャラクターとも言える。</p>

<p>ニコラ・ヒトリ・デの作画は一言で言えばスクリーントーンに依存しすぎだ。ただ量が多いというだけではなくて、髪の毛や服、廊下の天井やロッカーなど一つのコマの中で隣接しているものに対してまったく同じか、よく似通ったトーンを貼りまくるので読んでて息が詰まりそうになる。魔法の効果を視覚的に表現する際にもトーンが多用されていて、このことは読者に対してくだくだしい説明的なセリフを省くという意味では役立っているんだけれども、パッと見た感じではそれが魔法を表しているのかそれとも別の何かのための漫画的技巧なのかということがはっきりしないという弊害の元にもなっている。例えばこんな場面がある。教室の中で三人娘のうち二人が会話をしていて、片方は机に腰掛けている。昼休みの光景なのかと思いきや、実は授業中であることが先まで読めば明らかになる。二人を丸く囲むような形で外側に貼られたトーンが魔法による結界のようなものを表していて、ほかの生徒や教師に気づかれずに済んでいるということを表現している。あるいは周囲の時間を止めているという表現なのかもしれない。こういったトーンの貼り方を日本の漫画でやれば二人の人物のあいだの心的な内密さを表すものか、もしくは読者に対して二人の人物への集中を促すものとして、つまり実体のない漫画的な表現として受け止めるのが普通だろう。何でもかんでも似たようなトーンでもって済ませようとするのでこういうややこしいことが起こってしまう。また、この人は本来ならばある程度にはペンで細かく物の輪郭を取らなければならない背景に対して、適当に波打った線を数本引いてその上にベタッとトーンを被せて済ませるという簡略化をあちこちでやっている。込み入った背景で惹きつけられるということを期待できないのが残念なところだ。</p>

<p>ニコラ・ヒトリ・デのキャラクターは顔の描き方に日本の漫画からの影響が最も明白に出ている。顔のパーツはシンプルな細い線で描かれ、いっぽうで髪の毛はかなりディテールに凝って細かいハネなどもきちんと描き込む。両目は極端に離れていて、鼻はあるかないかのかすかな影のようなものしか描かない。いかにも可愛らしく描かれているんだけれども、こういったデフォルメを三人娘に対して同じようにやっているので、ヘアスタイル以外に特徴がないキャラクターデザインの原因にもなっている。また、目や口など顔の部分を描く際に、線を一部消すことによってあまりくどくなく明るい印象の顔つきに見せるというテクニックのコツを作者はまだ充分には会得していないようにみえる。一部のコマでは消し方がおかしく、口を描いているのか、のっぺらぼうのように口のない顔に髭がまばらに生えているのかわからない妙な顔になってしまっている。ただし、日本の漫画からの影響という点で見れば、日本人にとってあまり違和感のないスタイルなんじゃないだろうか。僕は一般的に言って日本の漫画に作画の面で影響を受けた海外の漫画というものにあまり関心がない。ウェブでプレビュー的な画像を見ただけでげんなりさせられることが多く、買って読んでみたいという気にさせられることがほとんどない。この人は数少ない例外だ。違和感なく読めるということの一番の理由は目をシンプルに描いていることじゃないかと思う。大きく描いてないわけじゃないが、大きすぎず、潤んだ瞳の輝きなどもない。一般に日本の漫画に影響を受けたと思しき海外の漫画というものが日本漫画的な特徴を誇張しすぎることによってバランスを崩してしまい、ほとんど日本漫画のカリカチュアのように見えるのに対して、この人が描くものはデフォルメの仕方や描き込みの濃淡にバランスが取れている。とくに驚きや怒りの表情が顔のパーツの形を大きく変えるようなときでも絶妙にバランスを保っていて安心して読んでいられる。とはいっても、まったく違和感がないわけではない。人物の目を白抜きにすることで正気を失っていたり、動転していることを表す表現が出てくるんだけれども、これはおそらくは模倣するのが簡単だからという理由で日本の漫画であまりにも蔓延していて、正直言ってもう二度と目にしたくない表現だ。</p>

<p>これは日本の漫画からの影響なのかどうかは知らないが、三人娘が下着姿で描かれる場面がいくつかあって、そのどれもそれほど必然性がないという点は少し気になる。日本の十代の女の子向けのファッション雑誌にこういうカットが載っていてもまったく違和感がないと思える絵柄でもって唐突に男性読者向けの余計な気遣いを挿んでいるようなものでびっくりしてしまう。しかし、このことは男と女で読む漫画にはっきりと線引きがされている日本人特有の気づきかたなのかなとも思う。青年誌を読んでいて唐突に女の子の下着姿や裸が出てきても驚かないが、少女漫画誌で同じ事があれば作者や編集者の意図が気になって仕方がなくなるように。なお、下着姿くらいならば目くじら立てることもないけれども、一部のページにはかなり俗な、もっとはっきり言うと低俗で俗悪と思える表現があって、作者がいったいどんな読者層を期待しているのか戸惑ってしまう。もっとも、僕の考えすぎかもしれないが。</p>

<p>ジョエル・ジョーンズの絵柄はお世辞にも可愛らしいなどとは言えないけれども、単純な喜怒哀楽では済まない微妙な感情の入り混じった表情を描き分けるのがずっと上手い。また、ニコラ・ヒトリ・デの描く女の子に人種の区別がないのに対して、ジョエル・ジョーンズは三人娘のうち一人がアジア系であるということについてある程度には納得のいく描き方をしている。ニコラ・ヒトリ・デの描く三人娘の絵を見せられて黒髪の女の子が日系人だと思う人はいないだろう。ふたりとも互いに絵柄を似せようという配慮はまったくなく、特徴がそれぞれ出ていて、言われなければ同じキャラクターを描いているとは気づけないほどだ。</p>

<p>結局のところ、ニコラ・ヒトリ・デの描くキャラクターの可愛さと、それに似つかわしくない毒舌からくるユーモアとが僕にとって更なる期待をさせる理由ということになる。ストーリーが真面目な意味でどこへ向かうのか丸まる一巻費やしてもおぼつかないのが残念だけれども、とりあえず次の巻は読んでみたい作品だ。</p>

<h2 class="subhead">補足</h2>

<p><q lang="fr" xml:lang="fr">Nicolas Hitori De</q> という名前を本人がどう呼んでいるのかは知らないけれども、さすがに本名とは考えにくいし、フランス語っぽく「イトリ・ド」などと読むのもしらじらしいと思うので自然に「ニコラ・ヒトリ・デ」と読んでみた。</p>]]>
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   <title>賢者は眠る 第1巻</title>
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   <id>tag:kosame.org,2010://1.275</id>
   
   <published>2010-05-30T09:00:00Z</published>
   <updated>2010-05-30T09:00:31Z</updated>
   
   <summary>若くして身寄りをなくした女の子が、母の形見の指輪をきっかけとして、石の持つ不思議な力をあやつる男と出会い、ふたりで共に宝石にまつわる怪事件を解決していくというストーリー。一話完結式の話が五つ収録されていて、話によってさまざまなジャンルにわたる内容になっているけれども、オカルト的な要素を抜きにしても作りに無理があって不自然に思える箇所も多い。しかし、この漫画のいちばんいいところは主人公のキャラクターにあって、ただの薄幸の少女に留まらない意外な一面を覗かせる瞬間が見所になっている。</summary>
   <author>
      <name>Mochi</name>
      <uri>http://kosame.org/</uri>
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         <category term="Manga" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
   
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	<![CDATA[<dl class="caption">
<dt><img src="/reviews/manga/kenja-wa-nemuru-1.jpg" alt="竹内未来『賢者は眠る』第1巻：表紙" height="229" width="150" /></dt>
<dd><ul>
<li><cite>賢者は眠る 第1巻</cite></li>
<li>著者：竹内未来</li>
<li>出版社：秋田書店</li>
<li>発行日：2002年3月5日</li>
<li>ISBN: 9784253192279</li>
<li>200ページ</li>
<li>新書判</li>
<li>410円</li>
</ul></dd>
</dl>


<h2 class="subhead">レビュー</h2>

<p>若くして身寄りをなくした女の子が、母の形見の指輪をきっかけとして、石の持つ不思議な力をあやつる男と出会い、ふたりで共に宝石にまつわる怪事件を解決していくというストーリー。一話完結式の話が五つ収録されていて、話によってさまざまなジャンルにわたる内容になっているけれども、オカルト的な要素を抜きにしても作りに無理があって不自然に思える箇所も多い。しかし、この漫画のいちばんいいところは主人公のキャラクターにあって、ただの薄幸の少女に留まらない意外な一面を覗かせる瞬間が見所になっている。</p>

<p>未明はすでに母親を亡くしていて、さらに最近になって父親が多額の借金を残して蒸発してしまったという取って付けたような不幸な境遇にある。彼女が母親の形見として持っていた指輪の宝石を錬金術の世界で言うところの賢者の石であると主張して言い寄ってくる怪しげな男が明智で、彼自身も賢者の石を所有していて不思議な力をあやつることが出来る。未明はほかに頼りにすべき人がいないこともあって明智の仕事を手伝うことになるというのがこの主人公をめぐる基本的な人間関係。この巻は錬金術や降霊術の類のオカルト的な論理と力でもって宝石にまつわる事件を解決するエピソードの寄せ集めで成り立っている。主人公の未明が賢者の石を飲み込んでしまうことによって不思議な力を獲得するという設定からは、その力を使って普通の女の子には出来ないような活躍をする展開を予想させるけれども、そんな単純な話は一つもない。実際、主人公の獲得した能力が事件を実質的に解決する上ではあまり役に立たず、独りでは窮地に追い込まれてしまうところにこそ話を面白くさせる前提がある。</p>

<p>収録されている五つの話は、オカルト的な要素や宝石に関する知識がどのように事件の構造とその解決の過程に盛り込まれているかという違いが、それぞれのエピソードの趣向の違いの元になっている。ある話は宝石が持ち主を呪うホラーであり、またある話はブレスレットに嵌められた宝石の並び順から隠された真実を暴き出すちょっとした推理物のような話であり、ある話は主人公が思いがけず猟奇殺人の標的になるサスペンスといったように。ただし、怪事件のこういった表向きの違いが必ずしも面白さの根拠になっているとは言い難い。理由の一つは、ほとんどの話で事件を実質的に、最終的に解決するのが明智の仕事であって、主人公の未明はそれほど役に立たないということ。もう一つは、トラブルを解決する力の源が賢者の石であり、賢者の石さえ持っていれば向かうところ敵なしといった強さであり、石の持ち主が主体的にどのように関わるのかということが大して問題にならないということがある。</p>

<p>第一話から第三話までがこの理由にあてはまる。明智が賢者の石の力でもってトラブルを解決し、なぜ解決することが出来たかというとそれは賢者の石にそういう力があるからだというような、設定によるマッチポンプとでも言うべき単純な因果関係に拠っている。第五話では賢者の石の出番はないけれども、明智の持つ人造人間ホムンクルスが未明のピンチに割って入って助ける役割を果たしていて、賢者の石と同様に恣意的な設定が出来事の成り行きを左右しているという点では初めの三話までと変わりない。第四話はそうではなく、賢者の石とは関係なしに未明自身の意思が最も重要な決め手になっていてこの部分を気に入る読者は多いのかもしれない。僕も第四話そのものは収録されている中でいちばん面白い話だと思うけれども、事件解決のくだりが気に入らない。人を妬んではいけません、自分の弱さを認めましょうという、それ自体は誰にも否定しようのない正論が現世的な栄誉に未練を残した霊的存在に通用してしまうという安直さに納得がいかない。結局のところ、宝石にまつわるトラブルを解決するという表向きの出来事に注目する限りでは、この巻に収録された話はあまり面白いものではない。</p>

<p>もう一つ、話の出来を悪くしてしまっている理由として一部の登場人物の言動に説得力がないということがある。宝石の呪いだとか、亡霊の具現化といったオカルト的要素を除いても、出来事として普通ありえない不自然さが現実味を損ねてしまっている。第三話で呪いのブレスレットを池に捨てようとする男が登場するけれども、投げる先に人がいることに気づかないなんてことは考えられないし、さらに見ず知らずの人間に対して深刻な身の上話など普通はするわけがない。第五話では所有品の琥珀を偽物だと見破ったことが、家族の遺体と共に生活していた男の狂気を打ち砕いた根拠のように描かれているが、これもちょっと無理がある。この類の猟奇殺人は現実に起こっても不思議じゃない事件だけれども、琥珀はあくまで家族の永遠の象徴として意味を持たされていたのであって、その根拠ではないし、琥珀そのものは男にとって別にどうでもよかったはず。ただの象徴であることを超えて琥珀に何か重大な意味を持たせてしまうほどの、つまり琥珀が家族を永遠のものとしてくれるかのように錯覚するほどの深い狂気を描くには男の心理描写が足りなさ過ぎる。</p>

<p>この巻で本当に面白いのは、未明が事件の解決に取り組む過程で、自分自身の境遇についてのこの年頃の女の子らしい率直な心情と、現実に生き延びていく上で必要なしたたかな意志とのあいだの揺らぎが垣間見える瞬間だ。冒頭で多くの読者をいきなり萎えさせたに違いないいかにもわざとらしい不幸のどん底という設定が、決してわざとらしくなくなるわけじゃないが、しかし問題にならなくなる、そういう瞬間だ。どちらか一方に偏るのではなく、両方を同時に抱えているということがリアリティの根拠になっている。作者がこの主人公を善良なる薄幸のヒロインに仕立てようとせず、良い意味ですれた性格にしていることで可能になっている。すれた性格だから好感を持たない読者もいるかもしれない。しかし、こういう境遇を現実に生き延びるということはこうだろうという現実感が僕の共感するところだ。</p>

<p>この漫画は、真剣なドラマのような立回りとコントのようなコミカルな会話のやりとりとのギャップを自由に行き来して絵柄を臨機応変に変えている。このノリに僕はなかなかついて行けず、初めは読み進めるのがかなりつらかった。デフォルメされた絵柄で描かれる即席のギャグなど省いて終始まじめなドラマとして描いてくれてもよさそうに思えた。しかし、話をよく考えてみると必ずしも必要のない切り替えをやっているわけではなく、コミカルな絵柄でこそ描ける話のすじもあるということがわかる。第二話にこんな場面がある。明智の身柄を胡散臭く思い、身の危険を感じた未明が棒で明智を殴りつけて逃げるが、その後幼なじみの男に襲われてしまう。明智はその場に駆けつけるけれども、先ほどの件のせいもあって直ちに未明を助けようとはしない。ここで未明の吐くセリフがかなり強烈で、襲われてる最中の女の子にこんなことを言わせるのかと驚いた。この巻の中でも屈指の名場面だ。第一話で助けてもらった恩人に対して、誤解があるとはいえ、本気で殴って逃走するということは真剣なノリのままではあまりにも不自然だったに違いない。第五話でも同様に、未明が明智の経営する店の中のオブジェを勝手にゴミに出してしまうということが、絵柄を替えて描くことで成立している。本来ならば、バイトの身分の未明が店の物を勝手に処分するなど考えられないことなんだけれども、明智の態度を子供のようにコミカルに描くことで不自然ではないように見せている。要するに、第一話と第五話の例はともに本来は未明の保護者のような立場にあるはずの明智を引き離して事件に絡ませるための方便として絵柄の切り替えが使われている。僕のような読者がノリについていけるかどうかとは関係なく、その程度には意味を持っていると言わなければいけない。</p>

<p>結局のところ、この漫画は極端に不幸な境遇の主人公がただの弱者や犠牲者に留まらず、時折読者を驚かせる意外な一面を持っていることが、凝ったファンタジーにありがちな設定の恣意性に依存しない面白さの元になっていると言える。文句をつけたい点は多いけれども、最初の話を読んで設定や人物の関係を把握した時点では予想もしない面白さのある一冊だ。</p>]]>
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