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566 Frames

566 Frames by Dennis Wojda
  • 566 Frames
  • Author: Dennis Wojda
  • Publisher: Borderline Press
  • Publication Date: October 2013
  • Size: 20cm x 14cm
  • Format : softcover
  • ISBN: 9780992697204
  • 288 pages
  • £15.95 / $23.95

レビュー

ポーランドで刊行された 566 kadrów の英訳版。もともと著者のブログで一コマずつ更新されたものをまとめて収録している。自身の生誕の時点から家系を遡り、先祖たちの送った波瀾万丈の人生の数々を紹介していくといった内容。本編の大部分は実話と思われる印象的な出来事で成り立っていながらも、おのおの別個の人生から寄せ集めた断片的なエピソードを一つのすじにまとめ上げる手際にフィクションとしての技巧が凝らされている。おせじにも個性的とは言いがたい素朴な挿絵風の絵柄といい、均一で固定されたコマ割りの単調さといい、本作はその控えめな見た目からは予想もつかないが、深い情念の込められた野心的な作品だ。

初めに断っておかなければならないことがある。僕はこれまでレビューを書くうえでネタばれを避けるのは簡単なことだと考えてきたけれども、今回は作品の中身についてどこまで明らかにしてどこから伏せるべきかなかなか判断が出来ずに迷った。そしてあまりにも時間をかけすぎたので結局見切り発車をしてしまった。ただ、本作は謎解きが中心となるようなミステリーではないし、僕が気にしている該当箇所は本書中の半ばほどであってそこからまだまだ先が長いのであまり気にする必要はないのかもしれないとも思う。それでもネタばれを避けたいと思う方は以降の段落の頭で「ネタばれ」がどうのこうのと僕が言い出した箇所で読むのをやめたほうがいいかもしれない。

Excerpt A
冒頭

本編の最初のページには家系図が載っていて、作中に登場する先祖の名前や続柄を確認することが出来るようになっている。もちろん作品の読解に供するための配慮に違いないが、この図を見せられたときの僕の印象はあまり芳しいものではなかった。まず、こんな図を必要とするほどたくさんの登場人物を識別しながら読まなければならないのかという不満があった。それに本編の内容が何世代にもわたる作者の一族を中心とするものであるならば、よほど奇人変人ぞろいの家系でもなければおもしろい漫画にするのは難しいんじゃないかと思えたからだ。読み始めてすぐに見て取れることだけれども、作者の家系は世襲の王侯貴族などではないし、親から子へと暖簾を受け継いで代々同じビジネスを続けてきた商家というわけでもない。つまり連綿と何世代にもわたって受け継がれてきたテーマのようなものはない。彼らは作者から見て父方と母方のふたつに分かれる家系においてつながっているというだけのそれぞれ別個の人生を送った人びとだ。また生活振りについても一部の例外はあるものの総じてつましい庶民として描かれている。要するにどこにでもありそうな庶民の家系を取り上げて時代も住んでいる場所も遠く離れた人びとのエピソードを抜き出してきて、おじいさんはこういう人だった、おばあさんはこういう子供時代を送った、ひいおばあさんはどうだったとか、次つぎと紹介していく漫画がおもしろくなるわけないだろうというのが僕の抱いた当初の懸念だった。

実際に読み通してみて結局のところどうだったのかというと、まず登場人物が多すぎて話についていけなくなるのではという心配はそもそも無用だ。読者へ向けて紹介される先祖のひとつひとつのエピソードは基本的に当事者が直接に体験した連続した期間の出来事から成り立っていて、決してその他大勢いるほかの先祖たちとの関係を前提にした複雑な家族ドラマをやっているわけでなない。極端な言い方をするなら、「作者の家族や先祖の誰かが昔こういう体験をした」くらいの大雑把な認識で読み進めても差し支えないはずだ。さらに、そのときどきの登場人物が誰であれナレーションを務めるのは終始一貫して作者であり、自分から見た絶対的な続柄でもって登場人物を指し示してくれるので理解の助けになる。読者は自然と親族関係を整理しながら読むことが出来るはずだ。ではそういった先祖たちのエピソードの寄せ集めが全体としてどういう意味を持つのか、ひとつひとつのエピソードにおもしろいものがあったにせよ、全体としては結局寄せ集めに過ぎないんじゃないのかという問題については、半ばあたりまでは確かに僕はそういった懸念を抱きながら読み進めたのを覚えている。しかし、ほどなくして本編の全体を貫く著者の意図を了解したのちにはこういったことはまったく問題にならなくなった。

作者の一族が基本的に平凡な庶民でありながらも、語られる生前のエピソードが痛切で印象的なものにあふれている根拠の一つとして、彼らが戦争の時代を生きたからだということは否定できない。それでも登場人物が戦争によって悲惨な目に遭ったことそれ自体がこの漫画において読者の心を動かす最大の根拠だとは言いたくない。第二次世界大戦においてドイツとソ連の双方から蹂躙されたポーランドの歴史をふまえれば、むしろ作者の一族は幸運に恵まれたほうじゃないかと思える。もっとむごたらしい災難に襲われたポーランドの人びとが数え切れないほどいたことはこの漫画を一読しただけでも見て取れる。この漫画のいちばんの肝は事実として描かれている出来事の珍しさや惨たらしさそのものではなく、それらの出来事を結びつけて一つのすじに撚りあげ、さらに自分の一族に起こった出来事をその末端の子孫である自分が語るということに重層的な意味を持たせるフィクションとしての手口にこそある。

制作のうえで著者の抱いたモチーフがただ単に自分の家系に伝わる先祖たちの物珍しいエピソードを記録に残すというたぐいのものであったならば、本作のようにフィクションならではの特色を強く帯びさせることなく、もっと一般的な評伝のスタイルでもってすべてを描きつくすことが容易に出来たはずだ。すなわち、執筆時点までに収集し整理した自分の家系の先祖にまつわる見聞を時系列順に、なるべく筆者自身の主観を排して記述していくといったようなよくあるタイプのものだ。そのような平凡な手法でもって淡々とこの作品が描かれたとしてもそれなりに読んでおもしろいものにはなっていただろうと思える。作者の先祖たちの人生にはウソのようなほんとの話とでもいうべき珍しい体験がいくつも含まれているからだ。にもかかわらず、実際にこの著者が選択した叙述のスタイルはもっと挑戦的なものだった。

レビューを書くために読み返してみて気付くことは、そのときどきに描かれる時代と場所がずいぶん頻繁にあちこちへ行ったり帰ったりと移り変わっていることだ。場面の転換が多くなりがちな理由のうち身も蓋もない事情について言うと、作者が読者に向けて先祖の昔のエピソードを紹介する合い間を縫うように出産を控えた母親の動向をリアルタイムの出来事として挿入しているという構成の仕方がある。そういった事情を除いても、そもそも紹介される先祖がたくさんいるならば場面の転換が多くなるのは必然的なことじゃないかと思われるかもしれない。しかしながら、たがいに親子関係にある者たちのように同じ時代に同じ場所で生きた人物たちのエピソードはその多くが同じ時期の出来事としてまとまって紹介されている。必ずしも本作のなかで見られるように頻りに時代と場所を切り替えなくともよさそうに思える。ここで僕が言いたいのは、前述したように本作がよくある評伝のようなスタイルで書かれていたならば、まず知りうる限りいちばん古い先祖のエピソードを描き、その次にその子供、続いてその孫……といったようにひとりずつ、あるいは一つの家族ごとに時代の順に片付けていってもよかったはずだ。なぜそうなっていないのかという根拠にこそ、この作品に込められたフィクションならではの仕掛け、すなわちプロット(筋立て)がある。

ここで本作において作者が読者に向けて披露するエピソードについて、それぞれ時代と場所、そしてどの人物を中心に据えて描かれているかという点に着目して順番に列挙してみたい。リアルタイムとなっているのは本書の執筆時点から40年前、作者がまだ母親のお腹の中にいた時期のことであり、ナレーターを務める胎児としての作者が先祖のエピソードを想い起こして語るとともに、周囲で起こる現在進行中の出来事をも描写するという、一種の仮構的な語り手が位置している奇妙な時空だ。時代の表記については断片的な情報から逆算しておおまかな見当をつけたものもあるので間違っている可能性もあることを断っておきたい。およびストックホルムやワルシャワといったよく知られた都市以外については場所を厳密に区別することなく国名でもって代用している。

第1章
  • [リアルタイム、ストックホルム] 母親に最初の陣痛がおとずれる
  • [1970年代初頭(?)、ストックホルム] 初めて新居をかまえて同棲を始めた頃の両親の話
第2章
  • [リアルタイム、ワルシャワ] 祖母(作者の母方の祖母)が出産間近の母親の元へ駆けつけるべく旅行の準備をする
  • [ナチスドイツによる占領期、ワルシャワ近郊] 母方の祖母が娘(作者の母親)を身ごもっていたときの話
  • [ロマノフ朝末期のロシア、および同時代のポーランド] 母方の祖父の少年時代、並びに彼に影響を及ぼした父親(作者の曽祖父)の話
第3章
  • [リアルタイム、ストックホルム] 母親が駆けつけたばかりの祖母(作者の母方の祖母)と会話を交わす
  • [1950年代初頭(?), ポーランド] 祖母の母親(作者の母方の曾祖母)の話
第4章
  • [リアルタイム、ストックホルム] 父親が母親へ電話をかけて話をする
  • [1960年代末、スウェーデン] 父親が初めてスウェーデンに渡航して現地で生活を始めた頃の話
  • [第二次大戦終結直後、ワルシャワ] 父親の少年時代の話
  • [占領期、ポーランド] 父親とその家族の生活の話
  • [占領期、ポーランド] 叔母(作者の父親の姉)の話
  • [占領期、ポーランド] 祖父(作者の父親の父親)の話
  • [占領期、ポーランド] 祖父の義理の兄弟の話
  • [占領期、ポーランド] 祖父の義理の兄弟の奥さんの話
第5章
  • [リアルタイム、ストックホルム] 母親が自制心を失って車を暴走させる
  • [1949年頃(?)、ポーランド] 母親が幼少時に目撃した彼女の父親の話
第6章
  • [リアルタイム、ワルシャワ] 落ち着きを取り戻しつつも、母親はさらに車を走らせつづける
  • [19世紀末から20世紀初頭にかけての30年(?)ほどの時期、ポーランド] 母親の祖母とその伴侶となった男の話

この章立てはあくまでレビューを書く便宜のために僕が勝手にこしらえたものであって、実際の本書のなかにはこのような区分が一切ないということを断っておかなければならない。また、それぞれの章の分量もまちまちで、第2章が12ページしかないのに対して第6章は全体の三分の一を超えるほどのボリュームになっている。実際に本書でこのような章立てをしたならばかなり奇妙なものになってしまうだろう。とはいえ、こういった区分を導入すると非常に都合がいい。回想が回想へとひたすらとりとめもなく移り続けていく本編の構成の仕組みと、そこに込められた著者の意図を推し量るうえでわかりやすくなる。

あえてこのような章立てによる区分を設けることで見えてくる構成の仕組みのポイントが二つある。そのひとつは、ある先祖のエピソードから別の先祖のエピソードへと時代も場所も切り替わる際の工夫だ。すなわち各章において冒頭に置かれた出産間近の母親の現況の描写が、時代を遡った遠い先祖の回想へとスムーズにつながるように関連付けられているということがある。たとえば第二章と第三章は作者の母方の先祖のエピソードから成り立っているけれども、どちらの章も娘の陣痛が始まった知らせを聞いてその母親(作者の母方の祖母)が急いで駆けつけるというリアルタイムの出来事が先祖のエピソードを語る導入の役割を果たしている。その作者の母方の祖母と関係の深い旦那(作者の母方の祖父)や母親(作者の母方の曾祖母)のエピソードへと自然に回想がつながっている。同様に第四章では読者に対して父方の家族のエピソードを披露するにあたり、身重の奥さんの元へその旦那である作者の父親が電話をかけて話をするというリアルタイムの出来事を冒頭に置いている。こういった構成の仕組みによって、作者がランダムに選んだ先祖のエピソードを前後の脈絡なしに羅列するような恣意性を避けながらも時間と空間を越えてさまざまな先祖のエピソードを自在にナレーションの語り口に乗せることが可能になっている。しかし、それだけではただ単に章から章へのつなぎ方がスムーズだといえるだけだ。依然として、それぞれ別個の人生から寄せ集めた実話はどれだけ興味深いものであっても互いに無関係であり、一冊の漫画作品としてひとつの話のすじにまとめようがないじゃないかという懸念は残る。そういった懸念を抱いて頭の隅にその懸念の山を積み上げながら読み進めた僕のような読者こそ、本作のハイライトで明かされる真実に驚くことになるといえるだろう。

Excerpt B
スウェーデンに渡航して生活を始めた若き日の父親

本作半ばに訪れるハイライトについて説明する前に、そこへと至るまでに紹介される作者の先祖のエピソードがどういうものなのか、一部の登場人物の紹介を兼ねていくつか紹介してみたい。冒頭が母親の陣痛から始まっていて、なおかつそのお腹の中から実況中継でもするかのように作者が語り手としての位置を構えていることからも半ば明白なことかもしれないが、いちばん重点を置かれて描写されているのはこの母親だ。まもなく出産を経験することの不安と孤独にどう立ち向かうのかということが、読者へ向けて紹介される先祖たちのエピソードとからめて描かれている。その旦那である父親は若い頃から音楽に傾倒し、バンド活動のためたびたびあちこちへ遠征しているミュージシャンだ。少年時代には平和な戦後においてあえて子供同士の遊びで危うく命を落としかける体験をし、成人してからはろくに準備らしい準備もせずスウェーデンへの渡航を敢行して何とか生活をやりくりしつつ、持ち込んだ薬物で警察沙汰になるような騒ぎを起こしている。非常に行動力にあふれているけれども少し暢気で物事に無頓着なふしがある、そういう人柄だ。この旦那がもし出産間近の奥さんを気遣ってそばにいてあげたならば、そもそもこの漫画作品が成立しなかっただろうといえる。読者の視点からするとこの男は旦那としても父親としてもちょっと無責任で自分勝手に見えるかもしれない。しかし僕にとってはこの父親はあまり憎むことが出来ず、むしろ憧れる存在だ。人柄への個人的な好みは別に置くとしても、この父親がもたらす数奇なエピソードの数々が本書に収録されていることは良かったことだと思える。なぜなら作者の一族に連なる一部の先祖たちのエピソードが戦争という時代のせいで余儀なくもたらされた不幸を忍ぶことにとどまっているのに対して、この父親は自分の意志でもって人生の岐路を選択し自由を実現しているからだ。

Excerpt C
母から娘へと代々受け継がれてきた素質

作者の先祖のうち、父方の先祖の多くが占領期のポーランドにおいて体験した苦難を中心として描かれているのに対し、母方の先祖についてはトーンが異なる。もちろんどちらの血筋も戦争中は苦労したに違いないが、作者の母親の一族には女だけが持つ神秘的な能力があるとされ、そのことが人物描写の大きなポイントになっている。母方の曾祖母が晩年には意識が混濁していたにもかかわらず自身の死の正確な日時を予期して記していたこと、若い頃は産婆として働いていて胎児の性別を出産前に言い当てることができ、一度も外したことがなかったということ、そしてその娘、すなわち作者の祖母もまた同様の能力を持っているということなどだ。作中ではおそらくほかに上手く指し示す言葉がないという理由で魔女(witch)と呼ばれているけれども、ほうきに乗って空を飛ぶ魔女ではない。ポーランドでこの家系の先祖たちが過ごした地方に固有の歴史的な背景を持つ民俗的な概念とみなすべきだろう。曾祖母の幼少期のエピソードとして、夜中に林の中に分け入って死者の声に耳を傾けるといった慣習が母親から教わったものとして語られている。ここでは母親が娘を立派に育て一人前に教育するということが、すなわち魔女としての能力を習得させることと不可分であるかのように思える。もちろん現代では失われてしまった昔の風習の一部にちがいない。もうひとつ含意されているのはこの曾祖母の母親が若くして旦那を亡くしたのちに再婚することなく独身で110歳まで生きながらえたという事実だ。この地域の名前を含めた Kurpie woman というフレーズはそういった独立心旺盛な女性を指すニュアンスがあるようだ。誤解のないように付け加えなければならないが、少なくともこの作品の中で重要なのはこの母親の一族にとって現実に魔女とみなされるような神秘的な能力を獲得したかどうかが問題なのではない。代々じぶんの家系の女たちがたくましく、たとえ独り身になっても生きてきた、その立派な生き様を指して「魔女」とみなしていると考えるべきだろう。作者の母親のセリフのなかに自分に魔女の素質があるかどうかを問うものがあるけれども、それは決して神秘的な力を行使することができるかどうかを問題にしているわけではないということだ。

ここまでこのレビューを読んできた人にとって、この作品のハイライトがどういうものであるのかすでにネタばれされていると感じるだろうか? それとも見当もつかないだろうか? そういったことが気になるのは作品の構造についてどこまで語れば僕の受けた衝撃について説明するのにじゅうぶんでどこから先が余計なネタばれになってしまうのか上手く判断がつかないからだ。第5章のラストに訪れるハイライトはそれまで読者に向けて紹介されてきた先祖のエピソードの数々が、作者の母親の回想でもあるという事実が明瞭になる瞬間だ。この驚きは例えるならば、映画館で独りきりのつもりで鑑賞している最中にふとした拍子に振り返ったら観客が一人いて、それが映画の中の登場人物の一人であり、しかもその映画を編集した本人だった……といったような体験だ。ただ意表を衝かれて驚いただけではない。それまで作者のナレーションに導かれてページの上に繰り広げられてきた先祖たちの数々のエピソードの内容が実はことごとく作者の母親にもふまえられていて、出産間近の孤独と不安を耐え忍ばなければならない境遇から、たとえ独り身であってもたくましく生きてきた先祖たちの生き様を回想しているとみなすことができる……という真実が明白になるからだ。この瞬間、僕はページから顔を上げて思わず呻きそうになってしまった。前述したように僕にとっておのおの別個の人生から寄せ集められた断片的なエピソードの束にすぎないと思われたものが一つの話のすじで見事に括られている。それだけにとどまらない。作中に表れている母親の言動には現実にはありえないものも含まれていて、つまり母親が作者に「昔こういうことがあったのよ」などと語って教えたわけでもない、明らかな創作の部分もある。すなわち自分が生まれてくるときに母親が感じたに違いない孤独や不安を想像して作者がフィクションとしてこしらえた描写もある。決してあるはずもない出来事を捏造したとかいう意味ではなく、現実的にありえないことが誰にとっても明白なフィクションならではの描写でもって補完している。それは自分を生んでくれた母親への愛であり、感謝であり、尊敬の念だ。自分の一族に起こった出来事をその末端の子孫である自分が語るということに重層的な意味を持たせる、と前述したのはまさにこのことだ。まず事実として残された先祖たちの生涯の記録と記憶があり、それを回想してまさに生きる糧として今日の苦難を耐えんとする母親の心境があり、そしてそういう母親の心境があっただろうと推測してフィクションの形で世に送り出す息子としての著者がいる、といった三層の構造になっている。

この作品に込められたフィクションならではの仕組みについて説明することがネタばれになるのかどうか迷ったのには理由がある。察しのいい読者にとっては、初めて読む際でも昔の先祖の回想を次つぎと繰り広げる先に待っているのは現在進行中の母親に起こる出来事の結末にほかならないだろうということが遅かれ早かれ見て取れるのかもしれないと考えたからだ。ただ僕にとってこの作品のハイライトの衝撃が予測できなかったことにも根拠はある。最初に読み進めた最中には妊娠中の母親をどれだけ不安で苦悩に満ちたものに描いて見せたところで、実際にお腹の中にいた胎児である作者が産まれているんだから大事には至らないだろうと感じられた。回想で紹介される先祖たちの多くがいつ死んでもおかしくない危険な境遇にいることにくらべれば深刻さの度合いからいってこの身重の母親の話がショッキングな方向に進むとは思えない、ひいてはこの母親にまつわるエピソードはあまりたいしたことないんじゃないのと心の隅で思いながらハイライトの箇所まで読み進めて……そして仰天したわけだ。

ハイライトに込められた著者の意図をふまえたうえでページを遡ってみると本書の章立てによるエピソードの区切り方にも意味があるということに気づかされる。あえて章立てによる区分を設けることで見えてくる構成の仕組みのポイントが二つあると前述したその二つ目のポイントだ。第1章から第2章のつなぎは作者の母親がいるストックホルムから遠く離れたワルシャワに住む祖母が自分の身重の娘の叫び声を聞いて、あるいは聞いたような気がして旅の支度を急ぐといった描写になっている。この部分ははじめて読む際にはあまり気に留めずに通り過ぎてしまうかもしれないが、この母とこの娘のあいだでこういった神秘的な現象がありえるという一種の仄めかしだとみなせるだろう。のちの展開をふまえればそれは「魔女」だからだということになる。

第2章のラストは母方の祖父の話でワルシャワの喧噪を離れて郊外の小川のほとりで遊んだのどかな少年時代の日々をノスタルジックな調子で描いている。

His days were peaceful and carefree.

They would never come back again.

最後の二コマに添えられたナレーションはこのようになっている。僕はこの箇所を読んだ際、この「そういう平和な日々は二度と来なかった」というのは単にその本人である少年時代の祖父が年を取って成人したあとには大人である以上そんなふうにのらくら過ごすわけにはいかなかったから、あるいは時代が変わってそんな暢気に過ごすわけにはいかなくなったくらいの意味だと受け取った。これ実はそんな軽い意味ではなく、この祖父のその後に起こった事件をふまえた意味深なものだ。「そういう平和な日々は二度と来なかった」というのは著者から読者へ向けて独占的に語られる客観的なコメントではなく、作者の母親の無念の思いでもあるわけだ。

第3章では前述した母方の曾祖母の魔女としての側面が明かされる。初めて読む際には、この曾祖母が神秘的な能力を持っていたという事実の露見が何を意味するのかは不鮮明だ。著者は自分の家系に超能力者がいたと本気で主張したいのかと怪訝に思う読者もいるに違いない。のちの章で明らかになる魔女の意味をふまえればここではひとつのサスペンスの伏線を張っていると言える。

第4章は著者がさまざまな先祖のエピソードを紹介していくうえでどのように順序に工夫をほどこしたかという理屈がもっとも明確に見て取れる章だ。占領期ポーランドにおける父親とその家族の様子を次つぎと描いていくくだりはほぼ時系列順に進んでいるようだけれども、父親を中心としたエピソードについては1960年代末から第二次大戦終結直後、そして占領期といったように時間を遡っている。なぜか? 結論から先に言うと、本書の構成において僕が章立てしたひとつひとつの章はそれぞれが第5章におけるリアルタイムで進行する母親の心境に結びつけられているからだ。つまり第1章から第4章までの各章は、出産を控えて不安と孤独を耐え忍び自身を鼓舞する、あるいは自分にはそれを耐え忍ぶだけの素質が、「魔女」の素質があるだろうかと問わずにはいられない母親にとって意義深い箇所において効果的に区切られているということだ。この第4章の終盤において作者自身にとって比較的身近のはずの父親の家族が大勢いるにもかかわらず、あえて遠縁にあたる祖父の義理の兄弟とその奥さんのエピソード、すなわち作者の母親にとって最も自分の境遇に重ねあわせやすい境遇に追い込まれた女性のエピソードがいちばん最後に配置されているのはそういう理由だ。1960年代末のスウェーデンにおける父親のエピソードが、時系列順でいえば章の最後に来てもおかしくないはずなのにそうなっていないのは……内容のおもしろさは別にしてリアルタイムで進行する身重の母親の深刻な不安に対置するにはちょっと能天気すぎるからだということは想像に難くない。ただし、ミュージシャンとしてスウェーデンに渡航したこの父親の若き日のエピソードでさえ、ページの順ですぐ後に来る第二次大戦終結直後の少年時代のエピソードをふまえると決して能天気の一言で片付けるわけにもいかない。 Crazy Jasio というニックネームのつけられた向こう見ずな少年が街中のあちこちで見つかる不発弾から火薬の粉末を器用に取り出すことが出来たということ、そしてそれが少年たちのあいだで宝物のように扱われたこと、その集められた火薬に火をつける遊びに少年時代の父親も加わり、結果として大事故になったということ……僕にとってこのエピソードは本書の中でもいちばんといっていいくらいに鮮烈に印象に残った。そのいっぽう、読み終わった後で本書のハイライトをふまえて振り返ろうとしたときに、このエピソードは作者の母親と結び付けようがないじゃないかと一瞬思ったけれども、そんなことはない。父親がのちにミュージシャンを志すきっかけになったその運命的な事故と奇跡的な快復とをふまえるならば、この男が音楽活動のため家を離れて遠征していることを身勝手だと責められないと感じる母親の胸中まで思わず察せずにはいられない……と言えないだろうか? つまり、僕がここで強調したいのは本書の中で描かれている作者の先祖のエピソードがことごとく母親に結び付けられているという事実だ。少なくとも章単位で見ればすべて第5章の母親の胸中に収束するように受け止めることが出来る。これには舌を巻いた。別の言い方をするなら、著者にとって本当なら紹介したい先祖のエピソードはほかにもあるけれども、あえて母親と結びつけて漫画として描くことの出来るものだけ選りすぐって残りは紹介することなく捨てたと想定することも出来る。だとしたらすごいことだ。

ここまで主に本書の冒頭から僕が最大のハイライトとみなす箇所まで、すなわち第1章から第5章について語ってきた。続く第6章はちょっと趣が異なっている。全体の三分の一にも及ぶこの長い終盤について語る前に、本書のタイトルの意味するところについて説明しなければならない。 "566 Frames" というのは単に全体のコマの数を表している。上下に均等に分割して2コマずつ描かれたページが全部で283ページあるから2倍して「566コマ」というわけ。読み終わった後に一考して「ああ、そうか」と納得するとともに半ば落胆もした。もっと気の利いたタイトルは思いつかなかったのかと。それはさておき、著者がこの作品を書籍化するに先立って更新してきたブログのタイトル、およびバナーの画像を見てもらえればわかるように実はこの作品はもともと "366 Frames" で終わらせる予定だったようだ。この366コマというのは僕が区分した第5章までの分量にあたる。もともと第6章の内容も366コマのうちに収めるつもりが予定が狂ってしまったのか、それとも第6章の内容を執筆の途中で付け加えようと考えたのかはわからない。少なくとも言えるのは、これ以前の章においては頻繁に時代と場所が切り替わっているのと対照的にこの章においては一つの時代と場所にとどまってほぼ時系列順に話が進んでいくという異質なスタイルをとっていることだ。

第6章における叙述のスタイルは、胎児の頃に遡った作者がお腹の中から語るというそれまでの設定にさらに輪をかける形で凝っている。以前の章においては先祖たちのエピソードを語るのは原則的にナレーションを務める作者自身だったけれども、この章では作者は聞き手に回ることになる。そして実際に話を進めていくのは母親と曾祖母だ。年齢差からして実際には会話などありえないはずのこのふたりを対面させるという設定それ自体が作者から母親への愛と尊敬を反映したものになっている。この最後の章で描かれる曾祖母とその旦那の生涯はそのまま一本の映画にできそうなくらいにドラマチックなもので、本書の紙幅の大部分が費やされているのも納得というものだ。ただし、事実として紹介されているそのふたりの人生が感動的なものであるのに対して、フィクションとして読者を驚かせる要素は控えめなものにとどまっている。すなわち前述した第5章のハイライトに匹敵するような驚愕を期待すると肩透かしに感じられるだろう。僕の区分による章立ての第6章のあとにはエピローグ的な話がちょっと続くんだけれども……詳細については触れないが僕にはずいぶんとあっさりしたものに感じられた。とはいえ、「それで良かった」と喜べるようなあっさり加減だ。

本書で紹介されているさまざまなエピソードを振り返るたびにつくづく感じるのは、よくもまあこれだけウソのようなほんとの話がいくつもあるもんだという感慨だ。戦争の時代に生まれずとも人は誰でも九死に一生を得るような体験のひとつやふたつあっても不思議ではない、とは言えるかもしれない。しかし、それ以外にもたとえば作者の祖父が敗色濃厚のナチスドイツ支配下においてヒトラーと差しで向かい合ったことや、父親がジミ・ヘンドリクスのタバコに火をつけ握手をしたことなど、歴史上の有名人の登場する稀有な体験が含まれている。こういった出来事について事実であることを証明するような物はおそらく存在しないだろう。また、「魔女」の神秘的な能力を科学的ではないとして受け付けない読者もいるかもしれない。しかし著者の描写の仕方にはことさら客観的な事実であることを強調するような姿勢はない。作中の描写のどこまでが事実でどこまでが創作なのかということは読者の判断にゆだねているように思える。それどころかむしろ事実のなかに明白に創作である要素を補助的に追加するのをためらわない。端的に言うなら、重要なのは魔女が実在したかどうかではなく、魔女として生きた先祖の人生を著者がどう捉えたのか、そして読者はそれをどう読むのかということだ。

漫画のおもしろさが絵の上手さと必ずしも関係ないということは、理屈では承知していても実際に本書のような漫画に出くわすとちょっとショッキングな真理のように思えてくる。僕には著者の絵柄がとてもストーリー漫画向きには見えず、むしろ電化製品か何かの説明書に添えられたイラストを連想してしまう。失礼を省みず言わせてもらえば、こんな素朴な絵柄でこんなヨレヨレの描線で読者を感動させる漫画が描けるのかといった驚きだ。ひとつはっきり言えるのは、ワルシャワの街並みを描いた背景において顕著になるように、この漫画の絵は描き込みの密度が増すほど雑駁で散漫なものに見えてくるということだ。生き生きとするのは人物の表情の描写に限る。極太の線で描かれた人物の顔のクローズアップが痛烈な印象を与えるコマがいくつもあり、はっきり気に入っていると言えるものもある。ベースが素朴な絵柄でも相対的なメリハリをつけることでどうにでもなる、と言ってしまっていいのかはわからないけれども。

僕が本書を購入したのは単にこの出版社から出ているいくつかの漫画のなかから消去法でひとつ選んだことによっている。もし絵柄を選り好みしていたならば実際に手にとって読むことはなかっただろう。いや、ひょっとしたらこれまでにも自分の絵柄の好みでもって取捨選択することでかえってこのような傑作に出会いそこねたことがあったのかもしれないと想像するとそらおそろしくなる。およそジャンルも内容も推測できないそっけないタイトルといい、プレビューを見せられても食指の動かない絵柄といい、地味で目立たないこの傑作が自分の手元に転がり込んできたことは僥倖としか言いようがない。

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10/10