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Corto Maltese: Under the Sign of Capricorn

Corto Maltese: Under the Sign of Capricorn by Hugo Pratt
  • Corto Maltese: Under the Sign of Capricorn
  • Author: Hugo Pratt
  • Publisher: IDW Publishing
  • Publication Date: December 2014
  • Size: 29.5cm x 23.6cm
  • Format : softcover
  • ISBN: 9781631400650
  • 140 pages
  • $29.99

レビュー

Corto Maltese という主人公の名を冠したイタリアの古い海洋冒険漫画の英訳版。本書内の紹介文によればこのシリーズの一部が The Ballad of the Salty Sea というタイトルのもとに初めてイタリアの雑誌に掲載されたのは1967年のこと。全12巻で刊行予定のこの英訳版のリストには本書のタイトルとともにその The Ballad of the Salty Sea も含まれている。したがって本書に収録されているのは最初に出版されたコルト・マルテーゼのストーリーではないということになる。この出版社から出る英訳版の第1巻であるにも関わらず、シリーズの途中から収録されている理由についてはとくに説明されていない。ただ、本書のどこにも巻数の表記が見当たらないので、ひょっとしたらストーリーの内容は巻ごとにかなりの程度独立したものであって、あまり順序にとらわれる必要がないというような編集方針が反映されているのかもしれない。

Excerpt A
シュタイナー教授を救うコルト・マルテーゼ

主な登場人物について説明しておこう。まず主人公のコルト・マルテーゼについては本書収録のストーリーが最初のものでないせいか、何ら人物紹介らしいものもないまま物語が始まっている。他人の過去を見てきたように言い当てる神秘的な力を持つ登場人物のおかげで、この男の素性についていくつか断片的な情報を得ることが出来るけれども、母親がジブラルタルの有名なジプシーでイギリスから来た水兵とマルタ島へ落ち延びたとか、その程度だ。最初の章の時点でコルト・マルテーゼはオランダ領ギアナのパラマリボという町にある宿屋に宿泊しており、この宿屋に集まってくるさまざまな人びとが抱える固有の目的や利害関係に主人公が応じることでさまざまな方向へ話が進んでいくという仕組みになっている。この宿屋にやってくる人物だけでも善人と悪人とを問わず相当バラエティに富んでいて、人種の坩堝というよりは噴き出す寸前の人種の圧力鍋といったカオスのように見える。

パラマリボに群れる有象無象の輩のうちのひとり、ジェレミア・シュタイナーはプラハ大学の教授という肩書きがありながらたびたび飲んだくれて失態を見せる情けないじいさん。ゴロツキにからまれているところをコルト・マルテーゼに助けられ、以後行動をともにすることになる。このシュタイナー教授の振舞いにはその弱弱しい物腰からすれば意外に思えるところがあって、これはアルコールが入っているせいという事情なのかもしれないが、予期せぬおもしろさの元にもなっている。歴史や考古学に精通していてその方面の知識で主人公の冒険を補佐するのに貢献し、また独りでいるとすぐ酔いつぶれてしまうという弱さのせいで主人公に助けられもしている。

モルガナ・バンタムはイギリスから来た少年トリスタンの腹違いの妹であり、神秘的な黒魔術を駆使する魔女でもある。父親亡き後、その遺産となる Atlantic Finance Company という企業を受け継ぐ立場にある。この企業についての詳細は不明だけれども、豊富な資金力を背景に大西洋を股に掛けて政治的活動を支援している多国籍企業のようだ。能力といい、政治的な立場といい、師匠と共通するところが多いけれども、まだ精神的に未熟な面を抱えていることがたまに垣間見られる。

ゴールドマウスはモルガナに黒魔術を教えた師であり、統治者ではないが、現地に多数の同志を従える有力者といえる魔女だ。ある登場人物の説明によれば Commercial Espionage Network なる組織に所属していて、そのアフリカ系アメリカ人グループの代表だとのこと。また、彼女とモルガナはともに British Commercial Intelligence Unit のエージェントでもあるそうだ。これはつまり、ゴールドマウスとモルガナが Atlantic Finance Company を通じて南米における白人支配への闘争を支援したり(第三章)、アフリカ人の植民地からの独立を支援する(第四章)活動に従事していて、そのためにイギリス軍とも協力しているということになる。この事実からはひとつの疑問が浮かぶ。イギリスもまた世界中に植民地を持つ帝国主義国のひとつであるからには、 Atlantic Finance Company の活動がイギリスの国益と衝突することはないんだろうかという疑問だ。ゴールドマウスやモルガナがイギリスによる帝国主義的支配だけは看過するというような偏った立場を取るとは思えない。残念ながらコルト・マルテーゼは「一つの場所に根を張らない」という主義を理由にゴールドマウスの本拠地を去ってしまうので、彼女たちがイギリス人をも巧く欺いてやりくりするのか、それともそのうち衝突が表面化するのか、そういった話のすじは当面期待できそうにない。

ゴールドマウスやモルガナが黒魔術を使う魔女であるという設定は、南米やアフリカにおける白人支配への抵抗を可能にするためにしつらえた説得力のある一つの口実のように思える。 Atlantic Finance Company という有力な企業を動かせる立場にあることや、イギリス海軍との協力の下に国際的なスパイ活動に従事している事実と、彼女らが神秘的な力を持っているということとが無関係だとは思えない。そのいっぽうで、問題を解決するためにその怪しげな力に直接訴えるようなことはしない。せいぜいテレパシーでもって仲間にメッセージを伝達するといったささやかなものにとどまっている。例えば、黒魔術が使えるのならその力でもって敵対関係にある人間をひとり呪い殺すくらいのことは出来てもよさそうに思えるけれども、自分ではそういった実力行使に及ばず、肝心なところはコルト・マルテーゼに依頼して解決している。黒魔術で邪魔者を次つぎと消すことが出来たら主人公の出番がなくなるという実も蓋もない理由もあるんだろうけれども、神秘的な力に頼りすぎない話作りが生身で生と死の境を奔走する海賊稼業のリアリティを損なうことなくすんでいる。

本書に収録されている6章からなるストーリーで主人公コルト・マルテーゼがやっていることを要約するならば人助けと宝探しだ。しかしながら、必ずしも救われるべき人びとが救われるとは限らず、お目当ての宝が見つかるわけでもない。そのようなストーリーのなかでかなりの程度に工夫が凝らされ、実際に上手くいっている作者の試みは、ともすれば主人公とは相容れないように思えるさまざまな思惑を抱えた人びととの関係性において主人公のキャラクターを掘り下げることにこそある。逆の言い方をするなら、主人公のキャラクターを掘り下げる機会と条件に恵まれたエピソードはおもしろいけれども、そうでないエピソードの出来はいまいちだということだ。こういった視点から全体のエピソードを俯瞰すると、主な登場人物たちを主人公との関わり方に基づいて三つの層に位置づけることが出来る。

基盤としていちばん底にあるのは伝統的な海賊稼業に携わる荒くれ者たちや、私利私欲の実現のために手段を選ばないならず者たちと主人公が関係を持つ層だ。コルト・マルテーゼはその身なりのせいかキャプテンとよく呼ばれているけれども、船員を雇って付き従えているわけではなく、もともと独りで行動している男だ。何者かと問うならば端的には海賊だと答えるほかないだろう。実際に沈んだスペイン船の財宝を探すというようないかにも海賊らしい探検に従事している。ほかに用事がなければずっと宝探しに明け暮れているんじゃないかと思える。財宝をめぐってほかの海賊たちと争いあう弱肉強食の非情な世界だ。その意味でこれは実質的には宝探しをしているかどうかとは関係がない。法による正義の支配が徹底されない西部劇的世界観と言い換えてもいいだろう。これは主人公コルト・マルテーゼがおそらくどこを活動拠点としても変わることのない……つまり、本書以外の巻で展開するストーリーにおいてもおそらく不変の根源的な関係世界のように思える。そして主人公が人助けをするエピソードにおいてその対象となる者たちと関係を持つのが二番目の層ということになる。その上にかぶさるようにあるのが神秘的な力を持つ魔女、ゴールドマウスとその組織がなす現地支援者たちと主人公が関係を持つ三番目の層だ。彼女はほかの現地人たちとは違って強力なネットワークを背後に持つ有力者であり、コルト・マルテーゼと対等に渡り合える立場にある。

  • 第一層:伝統的な海賊、もしくは無法者たちとの関係世界
  • 第二層:被救済者たちとの関係世界
  • 第三層:南米における現地支援者(ゴールドマウスやモルガナ)との関係世界

わざわざ順序だてて図式化するほどのことかと思われるかもしれないが、これは話作りがどのようになっているかということ、そして僕がこのストーリーのどこをどう評価しているかということを説明するのにはとても都合がいい。どの層の関係世界が中心となって話が作られているかという視点で各章を分類すると次のようになる。

  1. The Secret of Tristan Bantam: 第二層
  2. Rendez-vous in Bahia: 第二層
  3. Sureshot Samba: 第三層
  4. The Brazilian Eagle: 第三層
  5. So Much for Gentlemen of Fortune: 第一層
  6. The Seagull's Fault: 第二層

三つの層の順序には二つ意味があって、まず一つは主人公が第二層、第三層の関係世界にまで至る際には下の層の関係世界をふまえているということがある。これはどういうことかというと、関係世界が少なくとも第二層まで及ぶエピソード、すなわち第五章を除くほかのすべての章においてもなお主人公は第一層の関係世界に身を置いたままだということだ。すなわち、人助けをするとはいっても別に野蛮な海賊という素性を隠して偽善に精を出すわけではない。海賊の身の上のままで人助けをしているということだ。なぜそのような事態になるかといえば、あるエピソードにおいては人助けが契約として引き受けた仕事だからであり、別のエピソードでは単なる偶然の出会いをきっかけとした成り行きによるものだからだ。ただの「偶然の出会い」が命を懸けた人助けにまで及ぶ根拠は、コルト・マルテーゼが本来はいくら私利私欲の海賊とはいえ、目の前で苦しんでいる人を無視したり、報酬と引き換えの救助を持ちかけたりするほどに冷酷な男ではないから、ということにすぎない……。含みのある言い方でもって僕がここで何を強調したいのかというと、私利私欲の海賊を善意の人助けに仕向けるということは、損得勘定と道義心とを秤にかけさせ、普段あからさまには表明されない信念や指針を引き出す機会のひとつになりうるということだ。単に「海賊」を自称しながらも、ほかの同類たちなら拒絶するような仕事を引き受け、不合理ともいえる仕打ちに甘んじる態度のうちに、この主人公にとって「そうせずにはいられない」といった感じの何かが垣間見える。つまり、主人公のキャラクターを掘り下げる絶好の機会に違いないということだ。にもかかわらず、実際にその機会が活かされているのは第三章と第四章だけにとどまっている。この二つの章においては救われるべき弱者たちが単なる弱者で終わっていない。

第三章ではヨーロッパから来た白人の地主による現地労働者たちの搾取という問題が扱われている。とはいっても、主人公が直接に助けの手を差し伸べるのは労働者たちではなく、あくまでゲリラ活動的に武力に訴えて抵抗する匪賊といった感じの野蛮な連中だ。怒りにまかせて抑圧者たちを殺すことしか頭にない匪賊のリーダーに対してコルト・マルテーゼはある知恵を授けている。一見すると無知で野蛮な原住民を啓蒙するヨーロッパ人いう構図のように見えるかもしれないが、主人公の入れ知恵によって継続される抵抗活動というものは結局のところさらなる犠牲者をもたらすことが前提となっている。コルト・マルテーゼはまだあどけない匪賊の少年が戦いのなかで殺されるかもしれないということを承知しているはず。あからさまには表現されてないが、それでも彼らを支援するほかないだろうという覚悟を推し量るべきだろう。

第四章で主人公は植民地を支配する帝国主義国への独立闘争に身を投じているアフリカ出身の兵士を手助けしている。この兵士は第一次大戦の敵対関係に乗じる形でイギリス側のスパイとしてドイツ軍に打撃を与える活動に従事している。アフリカからドイツの植民地をなくすためだと言いながらも、別にイギリスに肩入れしているわけではない。まずドイツを追い出してからその次はイギリスだとうそぶく狡猾な戦略を抱いている。しかも、自らの容貌が与える先入観まで利用して敵味方をあざむく非常にしたたかで賢明なキャラクターになっている。コルト・マルテーゼは自らも一杯喰わされた演技力を賞賛しながらも、遠大な構想を抱くこの兵士の楽観的な笑顔を前にして少し言葉を濁している。第三章の結末でゲリラ兵の少年を鼓舞したときとは違って何か言いよどんでいる。農園から悪徳地主を追い出すことと、植民地から帝国主義国を追い出すことではスケールが違う。内心、「そんな簡単にいくことじゃないよ」と思っているに違いないが、かといって無駄な抵抗だと嗤うことも出来ない。ヨーロッパ諸国による植民地支配へ反旗を翻す兵士に共感はしても運命をともにすることは出来ない。それどころか、「まずドイツを追い出して次にイギリスを」といった構想でさえ途方もなく現実味のないものだと多かれ少なかれ思っているはずだ。このエピソードの「弱者」はこういった葛藤を主人公から引き出すことに成功している。ほかの人助けのエピソード、すなわち一続きになっている第一章と第二章、そして第六章においては表層でどれだけ派手に出来事が展開しようとも結局のところただの人助けに終わっている。なぜそうなっているのかといえば、ひとえに助けられる側のキャラクターが素朴に救済を待つだけの弱者の立場にとどまっているからだ。

主人公の関わる関係世界が第三層にまで及ぶ第三章においてコルト・マルテーゼがゴールドマウスに依頼されて仕事を引き受けるのは、あくまで報酬を前提とした契約に基づいている。虐げられている弱者を解放するという崇高な理念に感化されて無償で奉仕するわけではないし、友人だからという理由でもない。結局のところ、主人公は打算的な海賊であり続けている。実際に話作りをするうえで打算的な海賊に慈善活動家のような支援をさせるには何らかの説得力が必要になるわけだ。もともと私利私欲でしか動かない海賊のはずの主人公をこういった道徳的な善行に仕向けるための仲介をするのがこの現地支援者だ。この仲介役的な立場にある第三層のあるなしが話の出来に大いに貢献している。それはゴールドマウスが自分では成し遂げることの出来ない困難な仕事を依頼して助けてもらうといった弱い立場を超えて主人公と張り合えるほどの強烈な個性を持っているからだ。別の言い方をするなら、海賊でありながら殊勝な人助けに命を懸けるという、意外に見えたとしても不思議ではない行為のうちに潜む主人公の主義や信条を問うべく率直に切り込んでいる登場人物がゴールドマウスだけだからということだ。危険な仕事を依頼する立場でありながら一歩も引くことなく、それでいて和やかな態度をくずさないままコルト・マルテーゼをたじろがせかねないスリリングなやりとりを見せている。

Excerpt B
魔女ゴールドマウスとの交渉

はじめにゴールドマウスが依頼する仕事の内容について道義的な信条(moral principels)に関わるものだと述べたことに対し、コルト・マルテーゼは信条なんて相対的なものでしかなく、モラルの定義のしかたは幾通りもあると突き返す。ゴールドマウスから報酬として大金が用意されていることを明かされても、それだけの金が懸かっているからには大変な仕事なんだろうと訝しげに問いただす。つまり、自分はモラルでも金でも簡単には動かないとでも言いたげな様子見の姿勢を崩していない。しかし、仕事の内容について、すなわち傭兵を雇ってまでして農民を虐待し搾取している悪徳地主に反旗を翻す抵抗勢力のために援助物資を届けるという目的を知らされた途端、大金の報酬が魅力だから仕事を引き受けるといったとぼけた豹変を見せている。ゴールドマウスが "cute" だと言っているのはこの豹変した姿勢を指している。わかりやすく言い換えるなら、「あなたとぼけた振りしてるけど本当は悪徳地主が許せないんでしょ? 憐れな農民たちを助けたいんでしょ? 大金のためとか言って……心の底ではあなたとっても良い人なんじゃない!」ということだ。このゴールドマウスからのツッコミを受けてコルト・マルテーゼは、自分は女が原因で身を持ち崩したことがあったに違いないというふうに男と女の駆け引きの問題にすりかえて逃げようとしている。自分の過去のことなのにまるで他人事のように語っているのは、ゴールドマウスがその黒魔術の力によって自分のひいじいさんの代のことまで遡って何でも知っているという事実をふまえたうえでのもの。自分が忘れた遠い昔のことでもあんたは知ってるんだろうといった含みのあるひねった表現だ。コルト・マルテーゼが機転を利かせたつもりのこの切り返しが上手くいったと言えるかどうかは微妙だ。魔女はお世辞に乗じて「でもあなた女の人に対してはいつもガードが固いんじゃない?」と、コルト・マルテーゼの女性遍歴をふまえた視点からさらなるツッコミを投げかけている。平静を装っていても内心ではコルト・マルテーゼはたじたじといった体のはずだ。この場面は決して登場人物の表情をデフォルメすることなく、いつもの殺気立った海賊どもとの立ち回りを描くときと同様に整合性のあるキャラクターデザインを保っていることが重要だ。これがもしコルト・マルテーゼが照れて頬を染めたり、頭を掻いたりしたならば途端に陳腐で通俗的なものになっていただろう。ましてこの海賊の顔のクローズアップを一コマ挿んで内心のつぶやきを読者に読ませるといった冗長なおせっかいをする発想は愚の骨頂だ。登場人物の感情を誇張することなく、淡々と会話を運んでいるからこそ海賊を自称するこの主人公の魅力が引き立っている。コルト・マルテーゼのカッコよさはこういうところにこそある。作中いちばんと言っていい名場面だ。

第三話と並んで関係世界が第三層にまで及ぶもう一つのエピソード、すなわち第四話において主人公が被救済者を助けることになるのは、偶然の出会いがきっかけとなっている。すなわち、ゴールドマウスに頼まれて契約として手助けすることになったわけではない。しかし、最後まで読んでもらえばわかるようにこの偶然の出会いは実は偶然ではなく、ゴールドマウスによって仕組まれたものであったことが判明する。そしてさらに重要なのが、もともと宝探しが目的で現地を訪れたコルト・マルテーゼの追い求めるその宝をモルガナが横取りする結果にまで至っている。したがって、この第四章はコルト・マルテーゼが終始ゴールドマウスとモルガナの手の上で踊らされていた形になっている。この事実を知ったコルト・マルテーゼの反応にこの主人公のキャラクターの深みが出ている。普通は友人に宝を横取りされれば怒り、抗議するだろう。ましてこのエピソードでは武装したドイツの軍人たちを相手に一触即発のピンチに置かれる騒動に巻き込まれている。常識から言えばゴールドマウスたちの仕打ちに平然としていられるはずがないんだけれども、コルト・マルテーゼの反応は至って穏やかだ。それはもし自分が同じ立場だったならばそうしていただろうし、そもそもこの件について彼女たちと明確な契約を取り交わしていないといったものだ。平然を装った強がりではなく、落胆を覆い隠そうとする開き直りでもない。恩を売ったからといって、あるいは友人だからといって掛け値以上の親密さを相手に求めず、期待もせず、常に誰しもが私利私欲の海賊として振舞うことを前提としているかのような醒めた人間観だ。

ここでひとつ断っておかなければならないのは、三つの層はあくまで話作りのうえで主人公がどの階層とまで関係を持つかという識別にすぎないということだ。別に下の層の人びとの存在によって上の層の人びとが初めて存在することが出来るようになっているとか、上の層が下の層に助けられているとか、そういうことを主張したいわけではない。だから僕はあえて「関係世界」という曖昧な概念を用いている。別の言い方をするならば、主人公のキャラクターを掘り下げるうえでそれぞれの層の関係世界をふまえることでより深みのある描写が実現されているということにもなる。

図式化して各章を分類すれば都合がいいんじゃないかと考える過程で僕が疑問に思ったのは、各章の順番に必然性はあるのかどうかということだ。つまり、第五章と第六章がどちらも第三層のゴールドマウスたちとの関係世界を前提としないのであれば、それぞれの章をゴールドマウスが初めて登場する第三章より前に持ってきても良さそうに思える。ほんの少し手直しさえすれば違和感なく読むことが出来るだろう。なぜそうなっていないのか? 実のところ、僕はこういった作品の構造の必然性だとか作者の意図だとかを詮索することにはあまり関心がない。実際に作品がどのようになっていてそれを読んだ自分がどう思ったかということについて語ればじゅうぶんだと思っている。それでも、図式化によって第三章と第四章の関係世界の深まりを理解したあとで第五章と第六章に目を通すと物足りなさを感じずにはいられない。そして作者による各章の順序の意図がどうであれ、第五章と第六章においては第三層の関係世界の欠如を埋め合わせるかのように無理のある付け足しがなされているように感じられてならない。第五章は実質的にただの宝探しといっていい話であり、最後に至ってとってつけたようにゴールドマウスの関与を明らかにして強引に話をまとめている。つまり、コルト・マルテーゼとゴールドマウスとのあいだのやりとりにおいて互いのキャラクターを掘り下げることによってやっと物語らしい物語になっている。このオチがなければ正直に言って「なんだこりゃ」と呆れてしまうエピソードだ。第六章に至っては完全にゴールドマウスら第三層の関係世界は消えうせている。そのため、話をまとめるためタイトルにあるとおり、カモメを物語らしい物語に仕立てるための小道具として使っている。しかし、僕にはこのカモメを話に組み込んでいることが苦しまぎれの言い訳のように思える。とても成功しているとは言えない。

主人公がどの関係世界と関わりを持つかということを念頭に置けばよく理解してもらえることだと思うけれども、僕が三つの層の順序には二つ意味があると前述した、その二つ目の意味はここにある。すなわち、主人公が関わる関係世界が上の層に至るほどキャラクター描写に深みが出て、結果的に話もおもしろくなるということだ。第五章のように関係世界が第一層だけにとどまっているエピソードにおいては残念ながら深みのあるキャラクター描写など期待できない。コルト・マルテーゼが本来は海賊であって慈善活動家などでないことをふまえるならば、単に海賊同士の争いを描いたエピソードにおいても話がおもしろくなっていいはずだと思うんだけれども。端的に言えば、コルト・マルテーゼに匹敵するような強烈な個性を持つ海賊的キャラクターが登場しないということが根本的な原因だ。また、関係世界が第二層にまで及ぶ第一章と第二章、そして第六章においても被救済者側のキャラクターたちが主人公から単なる善意の救済者であることを超えるような側面を引き出さないことが物足りなさの原因の一つになっている。

ここまで僕が援用してきた図式について一応断りを入れておかなければならない。漫画というものはあくまでコマの連続によって描かれた作品世界の全体であって、すべてを単一の図式に還元できるものではない。図式化するということは単純化するということであり、おのずから限界があることくらい僕も承知のうえでやっているということだけは言っておきたい。

以下、個別の章の内容について補足的なコメントをしておこう。まず第一章の The Secret of Tristan Bantam について。このイントロは主人公のもったいぶった振舞いにことさら箔をつけたがるようなしらじらしいナレーションで始まっている。まだ何もしていないうちから主人公を持ち上げようとする語り口に辟易して昔の漫画だから仕方がないのかとがっかりしたけれども、地の文のナレーションでもって失望させられたのはここが最初で最後だ。コルト・マルテーゼが悪徳弁護士ケレスターの事務所に押しかけて詰問している最中に起こったピンチを打開させるために作者の考案したアイデアは……正直言ってひでえもんだなと思う。アクションを描くのが下手とかいう以前に、そんなアクションでもって一石二鳥の結果をもたらすようなご都合主義のアイデアがどこの世界で通用するんだと目を覆いたくなる。トリスタンの父親が残したドキュメントから物語がムー大陸の伝説にからんでいることを知ったときにはかなり驚いた。いまどき冒険物でムー大陸なんてものをまともに取り上げるフィクションなんてないだろう。この作品が描かれた時代にはまだ新鮮だったのかもしれない。

第二章の Rendez-vous in Bahia は第一章からの続きとなっているエピソード。トリスタンを助ける話なんだけれども、彼の身元引受人である黒幕との対決で終わっている。はじめ読んだときには強烈な印象を残すトリスタンの幻覚体験は興味を掻き立てるけれども、この少年が引き継ぐことになっている亡き父親のムー大陸がらみの探索計画は別の機会に持ち越しとなっている。その黒幕ミルナーの仕掛けた策略の裏をかくコルト・マルテーゼのアイデアは……またもや「なんだそりゃ」と呆れる子供だましのものだ。このエピソードは伝説や迷信や予兆に黒魔術といった怪しげなものが現実に影響を及ぼしうるかのような胡散臭い考えに満ちている。ちょっとこれ以上はついていけないよと途方に暮れた頃にコルト・マルテーゼの口から出た、まるでメタ視点からのセルフパロディであるかのようなジョークにやっと救われ、「ああ、この作者読者のことを忘れたわけじゃなかったんだ」と安心することができる。

第三章の Sureshot Samba は前述したように主人公とゴールドマウスの会話のセンスが見所のエピソード。敵を殺すことしか頭にない反乱勢力のリーダーに組織論を説くコルト・マルテーゼのシニカルな政治観は、畏れ多いカリスマを戴く反乱勢力とのあいだにカルチャーギャップのようなものを感じさせておもしろい。しかしながらこの部分は会話によって一気に話が進んでしまうのでもったいなく感じる。もっと長い尺でもってじっくりこの異文化の接触を描いていたら……と残念でならない。

第四章の The Brazilian Eagle は第三話と並んで僕の気に入っているエピソード。イギリス人であるトリスタンにとって祖国に対する裏切り者が身内にいるという疑惑がちょっとしたサスペンスにもなっていて、民間船を装った隠密軍事作戦に対抗する諜報工作の成否という本題とあわせて意外性にあふれた筋立てになっている。トリスタン本人はへまをして味方を危機に陥れたり、単に話を進めるための道具にしかなっていない。主人公は第三話において悪徳地主と共謀関係にある政府関係者と対峙した際に、その身元を隠した相手に対して「出来の悪いオペレッタにも出演しそこねる大根役者」というような意味のおちょくりをしたのと同様に、ここでは植民地を支配するドイツ海軍の制服を着た男爵を捕まえて「ロマンチックな探検家のコスチューム」と挑発している。同じような場面においてもコンテクストに基づいて意味を持った風刺の言い回しを使い分けていて感心する。このように同じような状況においても微妙な条件の違いに基づいて的確に言葉を選ぶという点に関して作者は非常に優れているとたびたび感じさせられる。

第五章の So Much for Gentlemen of Fortune はここまで読んできたほかのエピソードにくらべれば変り種と言える宝探しの話。実際、初めて読んだときには本題の財宝発見の話のすじが佳境に至っても、「これどうやって話をまとめるつもりなの?」と不安に思いながらページをめくったものだ。主人公がよもや命を落とすような危機にたびたび陥っては切り抜けるというスリリングな展開であるにもかかわらず物足りなさを感じさせるのは、キャラクターの底の浅さがボトルネックになっているからだ。宝探しの競争相手として登場する脇役たちはこれまでのエピソードと同様に多様で個性的な外見をしているけれども、彼らの奇怪な容貌は僕には安直にケレン味を狙ったものだとしか感じられない。最後になってゴールドマウスの関与を明らかにすることでようやく話らしい話に落ち着かせているけれども、宝探しの謎解きの過程にまったくからんでいない以上は手っ取り早い付け足しにすぎない。

第六章の The Seagull's Fault は敬虔なカトリックでありながら数多の凶悪犯罪で悪名を轟かせる一家の伝説にまつわる話。復讐が更なる復讐を呼び、法の下の正義が果たされない境遇に追い詰められた被害者たちをコルト・マルテーゼが救うべく奮闘する。主人公がすでに窮地にはまっていて、しかも部分的な記憶喪失にかかっているというイントロは、ただの野生の生物にすぎないカモメにかこつけて意味ありげに話をまとめようとする結末と同様にずいぶんと風変わりだ。第五章で作中の謎の鍵となる部分に都合よく狂人を配置した作者はここでもまた同じ手口を繰り返していてげんなりさせられる。前章では狂人が狂人となった原因は説明されず、この章では偶然の事故のせいにされている。奇怪な振舞いをする人物を使って手っ取り早く異様な雰囲気を演出したいという安直さには、一種の慣性のようなものが働いているんじゃないかと思える。つまり、ここに来て作者が必ずしも意図してことさら奇妙な登場人物を出したいと考えたわけではなく、これまでのエピソードにおいて有象無象の悪漢や得体の知れない原住民など人種や経歴においてバラエティに富んだキャラクターばかりを捻出したあとでは、月並みな登場人物では見劣りがするんじゃないか……といったような思惑だ。頭のてっぺんを剃ったドミニコ会の修道士や、怪僧ラスプーチンと似通った容貌で同名の海賊などが脇役として出てくるのと同様に、安易にケレン味を狙ったものだと感じられてならない。このエピソードの見所はコルト・マルテーゼとジーザス=マリアなる名前のインディアンとのあいだに繰り広げられる丁々発矢の恫喝と挑発の掛け合い漫才のような会話、そして聖人クリストフォロスにまつわるジョークだ。九死に一生を得たこの女が敬虔なカトリックであることからすれば自然ともいえる連想に違いないが、主人公はこの感謝の言葉に対して身も蓋もない本音を混ぜて返答している。この意外なジョークは本編のなかで最高のユーモアだろう。

絵柄についてまず目を惹くのは室内でもべったりとした真っ黒の影を落とし、絶えず白黒のコントラストを際立たせる陰影の施し方だ。光源の位置からして必ずしも全方位に正確な輪郭を持って影を縁取るのではない荒っぽさがあり、かといって統一された様式美的なスタイルで押し通すわけでもない、ある種のバランスが取れた荒っぽさだ。この荒っぽさということは主人公の目つきの描き方にも現れていて、パッと見では判断のつかない微妙な感情を読者に探らせるような含みを持たせている。つまり、「見ごたえ」のある目つきをしている。パラパラとページをめくってみて背景がろくに描き込まれていないスカスカのコマが結構あることに気がついたけれども、読んでる最中に気にならなかったのはそういった作画のスタイルのおかげによるものなんじゃないかと思える。人物の表情は場合によってかなり弱弱しくなることがあり、同一人物かどうかさえ一瞬ちょっと疑問に感じてしまうことがたびたびある。クローズアップはともかく、少し引いた視点から人物の顔を描く際に整合性を保ったまま小さく描くということが不得手と見える。また、第三章のシュアショットという登場人物の描写で顕著となっているように、一部の登場人物では正面と真横からでは顔つきがまったく変わって見えてしまうという問題もある。

Excerpt C
海賊版のソフビ人形みたいな顔をしているのはまぎれもない主人公本人

しかし、最大の問題はなんといっても動きの表現のぎこちなさで、僕がこの作品をどれだけ気に入っているといっても擁護のしようがない。作者は人物の全身をコマに収めた視点で、腕や足が勢いよく伸びた構図を好んで用いている。このとき体のそばに添えられた効果線が本来意図すべき躍動感を殺す逆効果をもたらしている。例えて言うなら、ゴム人形が風に煽られてプルプル震えているかのように見えてしまっている。この時代に著者が想定した読者たちにはこれが自然な動きを表しているように目に映ったんだろうか? いずれにせよ、激しいアクションを描いた場面に出くわすたびに僕がしらけてしまうという事実は何度も再読した今でも否定のしようがない。

結論として端的に言えば、キャラクターの掘り下げ方は一流、会話の運び方や風刺やユーモアなど言葉遣いのセンスは超一流、しかし激しい動きを描く場面になると途端に三流になってしまう漫画ということになる。どの要素に重点を置くかということが評価の分かれ目になるだろう。今となってはあからさまに古く拙く感じられる部分があるいっぽうで、巷にあふれている昨今の漫画とくらべても引けをとらないどころか、むしろ抜群に優れている部分をあわせ持っていることが僕にとって驚異的で捨てがたい魅力を持った作品ということになる。

Rating
8/10