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Ten Sticks and One Rice

Ten Sticks and One Rice by Oh Yong Hwee and Koh Hong Teng: Cover
  • Ten Sticks and One Rice
  • Writer: Oh Yong Hwee
  • Artist: Koh Hong Teng
  • Publisher: Epigram Books
  • Publishing Date: November 2012
  • Size: 21.4cm x 15.4cm
  • ISBN: 9789810731083
  • Format: Softcover
  • 128 pages
  • S$18.90

レビュー

シンガポールの漫画。末期の癌に罹っていることを告知された男のそれまでの人生の歩みを世相の移り変わりとともに描くドキュメンタリータッチのフィクション。垢抜けない絵柄といい、音声表記の煩わしさといい、とても取っ付きやすいとは言い難い。しかし、表層であからさまには語られない物事に意味が込められた表現の数々は示唆的で、読者の積極的な読みを許容する懐の深い作品だ。

本作の背景には秘密結社のような非合法組織の衰退と、核家族化の浸透による家族観の変遷ということの二つがあって、この時代の流れがストーリーを根底から突き動かしている。いかにも近代化に伴う法整備や個人主義思想の所産らしいこの二つの潮流は、かなりの程度に実際のシンガポールの社会を反映したものなんだろうと思える。作者は主人公の少年時代から老年期まで半世紀ほどにわたる人生の節々を切り取って提示することによって、この二つの歴史の歯車に着目した社会の変容の実態を一市民の視点から実感をもって描き出している。本書はフィクションであり、登場人物も架空のものに違いないが、一読すればこの作品がシンガポールの歴史と現状を反映したものであることは誰にとっても容易にうかがえるはずだ。

そのいっぽうで、僕がこの漫画から受けた何とも言いようのない感慨は、現実とか事実をよくふまえているから良い作品だなどといった判断とは無縁のところにある。実際のところ、読み終えた直後の僕はまるで腹に漬物石でも埋め込まれたかのようにずっしりと重みを感じて身動きを取ることができなかった。立ち上がる気力もなければ、別の未読の漫画を手にとって読み始める気にもならなかった。おもしろかったかと問われれば、確かにおもしろかったと答えるほかにない。しかし、本当は「おもしろかった」というような感想はふさわしくない。おもしろい、おもしろくない以前にこの作品が自分にとってとても重要だという感じだ。上手くいくかわからないが、作品の設定やキャラクターなどについてひとつひとつ紹介したうえで、僕の感慨の内実について説明してみたい。

Excerpt A
対立する組織からの恐喝から仲間を守るべく赴いたSengとBoon Shan

主人公Neo Hock Sengは少年時代に兄貴分から誘われる形で秘密結社Ang Soon Tongの一員となる。やがて結婚して子を儲け、一家のあるじとなる。そののちいわゆるHawkerと呼ばれる串焼きの屋台を稼業とするようになり、作品冒頭の2010年現在に至るというのが略歴だ。Ang Soon TongというのはWikipediaのページまで存在するくらいでどうやら実在の秘密結社であるらしい。史実の犯罪組織の如何はともかく、作中でこの組織がどのように描かれているかということについてはいくらか説明が必要だろう。日本のヤクザのようにも思えるけれども、現代日本のヤクザのイメージでとらえると微妙にずれてしまう。このAng Soon Tongの構成員はすべてではないにしても、一部にごく普通の商店主のような一般市民が含まれていて、はたから見ればとても非合法活動に従事している野蛮な連中には見えない。この組織は "Cantonese" と "Teochews" による恐喝や搾取から構成員を保護することが日常的な務めとされている。脚注からは主人公の話す言葉がHokkienだとわかるので、少なくとも二つの勢力が対立していることが見て取れる。Wikipediaの記述を参考にするとHokkienとは福建省由来の方言(?)で、Cantoneseはもちろん広東語を話す人々のことだろう。Teochewsは潮州語と呼ばれる言葉を話す人びとを指しているらしい。ここには華僑とひとくくりにしてしまうと見えなくなる対立関係があって、互いに生死を賭けてしのぎを削る日常生活があるわけだ。Ang Soon Tongの構成員はこのような警備員的な任務に携わるだけではなく、契りを結んだ義兄弟とその縁者への末永い責任を負うことになっている。すなわち、義兄弟とともに助け合って生きていくだけではなく、片方が死んだあとには残された奥さんが路頭に迷うことなく経済的に支援するということまで含まれている。日本風に言えば、義理と人情に厚い人間関係で互いに結びついているということだ。

Sengの四人の子供たちはみな極めて個人主義的な考えの持ち主で、親の世代とは隔世の感がある。現在の日本人と大差ない感じだ。Sengは自分が大いに世話になった兄弟子の葬儀の晩餐に息子たちも参加させたいと思って連絡を取るが、快い返事をかえすものは一人もいない。時代遅れで非合法な因習をひきずった組織の法事などに関わりたくないというのならば理にかなっているように聞こえるかもしれないが、彼らが冷淡な態度を示すのは実は肉親に対しても同様だということが明らかになる。冒頭の2010年時点でこの子供たちはいずれも成人でそれぞれ家庭を持っており、自分自身とその家族のことしか頭にない。余命幾ばくもない父親であるSengの治療費をどうやって負担するのかということについてエゴ丸出しで揉めてしまう。Sengが子供の時分から身を尽くしてきた前近代的な秘密結社の人間関係のほうがモダンな法治国家における核家族の親子関係よりも濃密で慈愛に満ちているという皮肉があからさまになっている。

Excerpt B
父親であるSengの治療費をどう分担するか揉める子供たち

このように秘密結社の構成員であることと現代的な家族の主であるということのほかにもうひとつキャラクターとしてのSengの担っている特徴が串焼きの屋台を稼業としているということで、この特徴は折に触れて表面的な意味合い以上に効果的に用いられている。シンガポールではこの串焼きの屋台がおそらくは国民食といっていいくらいに普及しているようで、その意味で作者はありふれた職業を主人公に割り当てたと言っていいはずだ。秘密結社に籍を置いていることとは直接に関係がないけれども、しかし同様に衰退の憂き目に遭っていることが仄めかされている。かつて人びとは一度に何百本も串焼きを購入して大家族や近所に振舞って消費していたのが、今では子供を持たない核家族が増え、もはや串焼き10本とライス一皿くらいしか注文しなくなったという現実に直面しているというように。Sengの経営していた屋台は実は無免許でこれまで摘発があるたびになんとかごまかしてやってきたが、もはや限界で店じまいするほかないという判断には、したがって核家族化の浸透ということに加えてモダンな法の整備ということの二つ背景がふまえられている。さらに屋台の装置が解体されて屋外に放置されているラストシーンはどこにも居場所のない主人公そのものの暗示でもあるわけだ。

主人公Sengにまつわる以上の三つの特徴、すなわち前時代的な秘密結社の構成員であること、核家族時代における一家の長であること、そして屋台の串焼き屋ということに着目してストーリーを俯瞰すると非常にわかりやすく説明することが出来てしまう。この漫画がシンガポールの歴史と現状をよく反映しているといった意味ではこれだけでじゅうぶんなのかもしれない。しかしながら、僕が感銘を受けたのはこういったわかりやすく説明しやすい部分ではない。時代的な状況を説明するための担い手として登場人物を描いた部分についての僕の意見は、まあ妥当であればいいんじゃないの、くらいのものだ。なぜなら、身も蓋もない言い方をするなら、シンガポールの歴史やシンガポールという国そのものについて別に興味があるわけじゃないからだ。僕にとってこの漫画が傑作だと思え、とくに主役を務める登場人物が非常によく出来ているように思えてならない根拠は別のところにある。

まずはっきりさせておきたいのは主要な登場人物が世代論的な立場によってくっきりと描き分けられているわけではないということだ。つまり、秘密結社の相互扶助的な義理人情精神に代表される人間関係に染まった旧世代を肯定的にみなし、モダンで個人主義的な順法精神の洗礼を受けた新世代を否定的にみなすというような単純化はしていない。描かれている人間関係の濃密さという点で作者の視点が旧世代に肩入れしていることは明らかだ。しかしながら、主要な登場人物のあいだの違いに着目すると新旧世代の価値観をめぐる描写において力点が置かれているのはむしろ個人の意志や選択とでもみなすべき部分だ。決して世代決定論的なキャラクター造形に甘んじていないということが、単なるドキュメンタリー的なシンガポール現代史の記録にとどまらない魅力をこの作品に与えている根拠の一つだ。

主人公Sengと同様に旧世代の価値観を生きた人物であり、彼についてのもっとも身近な証言者である奥さんは、読者がSengをどのように評価するかという点で見逃せすことができない。愛憎入り混じりで長年寄り添うことになった境遇の人物が存在したことをふまえた上で主人公を裁断するならば、読者によって結論の分かれるところになるだろう。奥さんの登場する場面は決して多くなく、Sengとの馴れ初めに始まる'69年から'70年にかけての蜜月期、四人の子供をかかえて新居に移り住んだ'81年の倦怠期、そして物語の現時点である2010年の三つの時期に限られている。'81年の倦怠期において夫婦仲は最悪で、その原因が間違いなくSengのほうにあること、屋台稼業が順調にいっているにもかかわらず、Sengのギャンブル癖による浪費が家計を圧迫していることが明らかにされている。しかしながら、2010年現在では奥さんからSengへの険悪な心情は跡形もなく、余命短い旦那への気配りが読み取れる。この部分だけ取り出したならば、まるで長年にわたって懇意に連れ添ってきた良妻賢母の晩年のように見えてしまう。この奥さんが旦那と子供たちに対して抱く心情をどのように読者に理解させるかということについては、かなり様式的にこだわった描写が徹底されていて、作者の強い意図を感じずにはいられない。それは沈黙に意味を持たせるというものだ。寡黙な性格だからというよりも、むしろことさらに沈黙をまもっていると見られる場面が非常に多い。特に雄弁な子供たちとは対照的で、反論や異議のために口を開いてもよさそうなところでひらすら押し黙っている。同じように沈黙していながらも、旦那であるSengに対しては視線が共感や配慮を表し、子供たちに対しては不服と諦観のような心情を表している。

奥さんの沈黙の裏にある心情について、すなわち旦那や子供たちへの共感なり反発なりについては誰でも容易に読み取れるところだ。ただし、その沈黙をどう受け止めるべきなのかということ、および沈黙によって許されているかのごときSengを、夫であり父親でもある立場の人間としてどう評価すべきなのかということについては読者によって見方が大いに異なるところなんじゃないだろうか。最も身近な当事者である子供たちの証言からすればSengは母に向かって暴言を吐き、ひどい扱いを長年にわたって繰り返してきた父親ということになる。奥さんが子供たちの批判に同意しさえすればこの主人公Sengは少なくとも家庭のなかではひどい父親だったという烙印を押されて擁護の余地がなかっただろう。どうして作者は物語の現時点である2010年において奥さんのSengに対する共感的な態度を描いているのか? ここは作者の人間観をうかがい知ることの出来る部分で、僕がこの作品を大いに気に入っている理由の一つだ。奥さんはおそらくSengが年老いても失っていない昔気質の部分、すなわち義兄弟とその縁者への献身的な姿勢に代表される人間関係のあり方を決して時代遅れの因習だとは考えてなく、言葉に出すことはないものの、肉親にさえ冷淡極まりない子供たちの態度よりもはるかに好ましいものだと考えているはずだ。フェミニストは同意しないかもしれない。まるで男尊女卑の家長に虐げられてきた奥さんが、子供がいるばかりに離婚することが出来ず、ずるずると望まない家族生活を強いられ、なぜか晩年になって旦那に共感を示すようになっている、そんなおかしな豹変があるかと反発するかもしれない。しかし、僕は男女の仲というものは外からはうかがい知ることのできない機微を忍ばせているものであって、大義名分から夫や父としての良し悪しを裁断することなど困難だと考えている。この作者の人物描写はそういった僕の考え方にも合致して納得のいくものだ。確かにSengは家庭においてひどい父親だったに違いない、しかしそれでも慕って付き従うという夫婦関係だって現実にありうるだろう。そういう夫婦が決して良いものだなどと言うつもりはないが、多かれ少なかれ相反する感情を持ち合わせた二人が、それでも連れ立って暮らしていくというのが夫婦の仲というものじゃないだろうか。

非合法とはいえ組織に帰属し終生の相互扶助を謳った理念の信奉者としての主人公に対して奥さんのことを考慮に入れるならば、表向きの生き方がどうであれ、この主人公の家庭内における夫や父としての責任を問う試金石とみなすことができるだろう。そのいっぽうで、同じ理念の信奉者の一人として伴走した兄貴分であるBoon Shanについては、対比的に見ることによって旧世代の価値観を信奉し続けたSengの人生観そのものを問い返すことが出来る。Boon ShanはSengを誘って同時にAng Soon Tongに入会した男で、したがってSengにとって直近の兄弟子ということになる。終生Ang Soon Tongの理念に忠実に生きたSengとは違って、Boon Shanは'73年頃にすでに彼らの秘密結社が長続きしないことを予見し、自分は新しいビジネスを始めるのだということをSengに告げている。ふたりの立場が決定的に異なっていることは'82年に露見する。SengとBoon Shanの双方にとって兄弟子にあたるAh Pengの亡き後に残された奥さんに対してSengはずっと金銭面での支援を続けていたが、Boon Shanは意外にもつれない態度を見せる。もはやそんな援助を続ける義理はないこと、時代が変わって秘密結社そのものが機能しないということをSengに告げ、ふたりの方向性の違いが明確になる。Boon Shanの生き方を評価するならば、客観的に見れば組織の理念を途中で捨てた裏切り者にすぎないということになるだろう。僕がここで一つ問題として挙げたいのは、作者がなぜBoon Shanを「裏切り者」にしたのかということだ。本書のストーリーのほとんどは彼を裏切り者に仕立てなくとも同じように描くことが出来ただろう。一見すると、彼が裏切り者でなければならない積極的な理由はないように思える。しかし彼の裏切りによって相対的に美化されていてもおかしくないはずの主人公の人生が、実はそれほど誠実でもなく、責任感にあふれていたものでもないという揺り戻しが筋立ての上で図られている。同じ秘密結社を選択した二人の義兄弟、SengとBoon Shanとが袂を分かった半生を読者に俯瞰させた上で現在のSengの有様を突きつけるとどう映るのかということだ。

Boon ShanがSengと袂を分かって組織から距離を置いたことをどう受け止めるのかについてもっと突っ込んで考えてみたい。Boon Shanはのちに組織を離脱することを前々から考えていたわけではなく、あくまで時代の趨勢にしたがって方針転換をしただけだ。つまり、時代遅れの秘密結社に所属しても得にならないからと判断して途中で見切りをつけたということだ。打算的ではあるけれども、しかし理不尽で勝手な判断だと責めることが出来るだろうか? いや、ひょっとしたら組織の長老などはBoon Shanの裏切りを咎めたかもしれない。ここで僕はそもそもBoon Shanの「裏切り」を責めるべきかどうかという問いの立て方が不毛なんじゃないかと思える。そもそも、SengとBoon Shanは考えが一致などしてはいなかったんじゃないか、というように。二人して結社に入ったときには志を同じくするものとして一致した考えを持っているかのように双方が思ったに違いないが、それはそう思えただけのことなんじゃないのか? それぞれ精神の深い部分においては決して一致などしてはいなかったんじゃないだろうか? 食品の成分組成を調べるかのごとく二人の人間の精神を完全なまでに分析して合意や一致を確認することなど出来はしない。だからこそ時代の移り変わりによってある程度の条件が外された途端に、 Sengにとっては青天の霹靂だったかもしれないがBoon Shanはそれが当然のごとくに変節してしまったというように。

ここで僕はフィクションのキャラクターのあいだの仲違いをどう理解するかという次元を超えて、一般的に二人の人間が考えを同じくしたり、互いに理解するなどといったことが実際には不可能なことなんじゃないかという疑問に至らざるをえない。そのときその場面においては意思疎通してまるで同じ一人の人間であるかのように理解しあった気持ちになったとしても、それは実は単に同じ選択肢を引いたとか、相違点が表面化しない条件下に置かれていたとか、その程度のことに過ぎないんじゃないのかと。ここまで来るともはや漫画作品のレビューということを超えてしまっているが、超えたところまで考えさせずにいられないところに僕がこの作品を非凡な傑作だとみなす所以がある。いや、どうだかわからない。ひょっとしたら僕は作品の取るに足らないディテールに過大な評価を加えて何か一人合点しているだけなのかもしれない。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。はっきりと断言は出来ない。はっきり言えるのは、SengとBoon Shanとのあいだの仲違いは決してフィクションならではの特殊な作り事などではなく、歴史上どこにでもあっただろうし、そしてこれからも繰り返されるありふれた人間関係に違いないということだ。

Boon Shanの「裏切り」を解釈し直したうえで、では対比的にSengの人生をどう評価すべきかという点で彼の救いがたいほどのギャンブル癖を見逃すわけにはいかない。Sengは串焼きの屋台をやり始める以前からBoon Shanのもとで違法な賭博の掛け金を回収する使い走りのような仕事を手伝っていた。そしてたびたび一部の金をくすねて自分のギャンブルにつぎ込んでは兄弟子に叱られるという失態を犯している。Boon Shanが主人公と袂を分かつことになった一因は主人公にもあるわけだ。また前述したようにSengのギャンブル癖が家計を圧迫して奥さんとの不仲の直接の原因となったことも忘れてはいけない。この主人公のギャンブル癖というものをあまり深刻にとらえない向きもあるかもしれない。つまり、どんな立派な人間であってもひとつくらい欠点はあるものだとかいうように。しかし、僕はギャンブルの違法性を問題視したいわけでも、奥さんに迷惑を掛けたことをことさら責めたいわけでもない。新旧世代の価値観の相克とでも言うべき大河ドラマ的な問題が背景にすえられているストーリーにおいて、歯止めの利かないギャンブル癖という極めて個人的で卑小な問題に主人公がとらわれていること、すなわち主人公自身が読者の視点とは微妙にずれた立場でもって人生を生きてしまっているということに有無を言わせぬリアリティを僕は感じずにいられない。

Excerpt C
組織への貢献の見返りとしてギャンブルで一発当てることを期待するSeng

物語の結末近くにまで至ると読者は主人公のそれまでの人生について知るべき必要な情報をほぼすべて与えられ、したがってまるで主人公と感情や意見を共有し、主人公の立場そのものに身を置いた気持ちになって残りのページを読み進めていくことになる。しかしながらこの物語の最後で自分の死期が間近であることを念頭に置いた主人公の吐露した心情は僕にとって衝撃的なものだった。Sengは自分の信奉した旧世代の理念が完全に時代遅れとなったことを嘆くのでもなく、自分の子供たちにその理念を伝えることができない不甲斐なさを嘆くのでもない。自分はこんなにがんばって組織の仲間を助けてきたのに神様はどうしていまだにクジの一等を当てさせてくれないのかと愚痴をこぼしているのだ。僕の視点からすると、Sengの頭のなかではAng Soon Tongの義兄弟やその縁者たちへ長年にわたって献身的な貢献をしたことと、クジで大当たりを射止めることとが不思議にねじれてつながってしまっている。しかしSeng本人にとってはそれが不思議なことと感じられてはいない。僕が驚かされるのはまさにここだ。なぜなら古き良き時代の濃密な人間関係を尊ぶ精神とギャンブルの射幸心とを因果関係で結びつけることが不遜で愚昧なものに思えてならないからだ。しかしながら、以前からギャンブル癖の抜けなかったSengの人生を振り返ってみると別にここでキャラクター設定が破綻したとは感じられず、むしろ彼にとって自然な振る舞いであるように思えてくる。大義名分の崇高さから見ればずれているけれども、現実の人間のリアリティからすると別にずれているわけではない。作者は主人公についてそれまで伏せておいた設定を終盤になっていきなり明かしたわけではない。あらかじめ手持ちの札はすべて見せておきながら、なおかつそんな手があったのかと読者を驚かせることに成功している。主人公の信奉してきた理念を「崇高」だと考えて美化したのは読者である僕のほうということになる。いや、正確に言うとそうじゃないかもしれない。SengはAng Soon Tongの理念を崇高なものだと考え、なおかつAng Soon Tongに尽くした自分にはクジで一等に当たるくらいの報いがあってもいいはずだと本気で考えたのかもしれない。こういった登場人物の言動と読者の期待とのあいだのずれを破綻することなく作品に盛り込めるということは、とりもなおさず複雑な現実そのものを、人間そのものを描くことが出来ているとみなしていいんじゃないだろうか。

ここで一つ補足的な問題がある。Sengの嘆きは読者に対して衝撃を与えるべく作者によって意図されたものだろうかということだ。この問いには明確にこうだという回答を出しにくい。それは本書の叙述のスタイルとして、話のすじを構成するひとつひとつの出来事の描写がどれも似たり寄ったりの強調の度合いでもって描かれているという理由がある。この物語にはここが作中一番のクライマックスだと誰もが指摘できるような明確な山場がない。他の部分と比較して判断しようとしても、例えば大ゴマを使っているから比較的重要な場面だというような描き分けをしているようにも感じられない。また、読解に費やさせる時間の配分においても別にどうということはない日常生活の描写であるかのように淡々と展開してしまっている。該当の箇所を作者が僕と同じほどに重要な場面だとは考えていない可能性もじゅうぶんにあるだろう。

筋立てについては、新旧世代の価値観の対立ということをふまえた話のわりに激しい対立をたびたび表面化させることなく抑制していると思える。たとえばSengと子供たちとのあいだで意見の相違が見られた場面などで、僕はSengが激昂して説教の一つでもするんじゃないかと予想しながら読んだけれどもそんな場面は結局一度もなかった。また、串焼きの屋台を始めたSengがトントン拍子に上手く商売の波に乗ってしまっているように思えたのもちょっと意外だった。たとえば慣れない仕事を始めたばかりの頃に失敗をして、その仕事を紹介してくれた恩人に叱責されるとか、そういう類の成長を描くエピソードがひとつあってもよさそうに思える。それから、ヤクザ映画張りに秘密結社のあいだの抗争をもっと派手に描いてそれだけで見せ場として成立するようなエピソードを挟んでもよかっただろうと思えるけれども、そういった付け足しもない。良くも悪くもケレン味に頼らない実直な話作りになっている。

僕がどれほどこの作品を気に入っているといっても、絵柄についてはそれほど積極的に賞賛しにくいことを認めないわけにはいかない。一読して目に付いて仕方がないのは、奥行きのある背景の描写が不得手ということ。たとえばSengとBoon Shanが結社に入る際の通過儀礼を描く場面において彼らは急勾配の山の斜面を駆け上る試練を与えられるんだけれども、見た目にはまったく急斜面でもなんでもなく、試練の過酷さが伝わってこない。そのいっぽうで、頻繁に登場する中高年たちの微妙な表情の描き分けは、たとえ安定していないとしても、皺のおかげでどうしても線の多くなりがちなキャラクターデザインのおかげか、かなり上手くいっているように見受けられる。

パッと見にはいかにも野暮ったく垢抜けない田舎のおっさんにしか見えないこの主人公が僕にはとても他人だと思えない。誤解のないよう言っとくけれども、僕はシンガポールに住んだこともなければ、串焼きの屋台を切り盛りした経験もない。非合法な活動に従事したこともないし、刃物を振り回すような野蛮なこともしたためしがない。つまり、具体的な特徴として僕と主人公はまったく共通点がない。それでもこの主人公の人生は自分の人生そのものだと思える直観がある。具体的には何一つ共通点がないにもかかわらず、それが自分自身だと思えるようなキャラクターはよく描けているキャラクターだといっていいと思うし、そういうキャラクターが主人公を務める漫画もやはり傑作だといっていいんじゃないだろうか。あくまで直観としてそう思うというだけであって、僕がこのレビューにおいてその中身を的確に説明することが出来たかどうかはまた別のことだ。自分で読み返してみて、正直に言ってあまり要領を得たレビューではないと思うけれども、いまの僕にはこれが限界だ。

Rating
10/10