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The Eyes of the Cat

The Eyes of the Cat: Cover
  • The Eyes of the Cat
  • Writer: Alexandro Jodorowsky
  • Artist: Moebius
  • Publisher: Humanoids
  • Release: December 2011
  • Size: 30.8cm x 40.7cm
  • ISBN: 9781594650581
  • Format: Hardcover
  • 56 pages
  • $69.95

レビュー

Les Yeux du chat の英訳版。出版社のサイトでは両著者の初のコラボレーションと謳っている。ホドロフスキーの序文によれば1977年から翌年にかけて制作された作品とのこと。750部限定のふれ込みに思わず手が出てしまい、結論から先に言うとやっちまった感の否めない性急な判断だったと認めざるをえない。作品の性格からしてレビューのしづらい一冊なんだけれども、せっかく買った本なので思うところを漫然とつづってみたい。

まず言及しなければならないのは通常の規格を大幅に外れた判型だ。海外の漫画を手当たり次第に買い漁ったとしても、これほどの大きさのものに出くわすことはかなり稀なんじゃないだろうか。もう捨ててしまったので正確な比較は出来ないが、ブライアン・チッペンデールの Ninja がほぼ同じくらいの大きさだったと記憶している。これより巨大な漫画本は僕の知るところでは Kramers Ergot 7 くらいしかない。内容を気に入るか否かに関わらず、購入したが最後、収納に困ることだけは間違いないはずだ。

本書のストーリーは、あえてストーリーという言葉を使うのがためらわれるほど短くあっけない。ホドロフスキーがメビウスに対して提示した当初の構想はたったの5ページだったそうだけれども、そこへ残りの50ページほどを追加したのではなく、もともと5ページで済む話を10倍に敷衍したとみなしてかまわない。なにしろこの漫画は通常のコマ割りを一切やらず1ページ1コマのスタイルに終始している。しかもそのうち左側の17ページ分はまったく同じ絵の使いまわしだ。

登場するキャラクターは少年と鷹と猫の三者。僕にはこの少年が、パッと見は痩せた坊さんで少なくとも未成年には見えないんだけれども、ホドロフスキーが boy と呼んでいるので少年ということになっているんだろう。この三者の関わるほんのひと時の出来事がストーリーのすべてということになる。この出来事は非常にグロテスクでおぞましく、部分的に注目するならばホラー漫画の一幕にしか見えないものだ。三者がどのように出来事に関わってどのように終わったのかという外見上の一部始終はありのままに呈示されている。わかりにくいのはこのようにグロテスクな出来事によってストーリー全体として何を意味しているのかというような問題だ。

ストーリー全体の意味を問わずにいられないのは、何よりもまず唯一の人間として登場する少年が常軌を逸した所業に耽っているにもかかわらず、それを意味付けるためのコンテクストが欠けているからだ。すなわち、少年の動機や経緯、そして出来事が社会的に持つ意味や他者との緊張関係など、一般的なストーリー漫画ならば当然あるべき要素のことだ。すなわち現実世界で生活している読者に対してフィクションの世界の登場人物へ能動的な関与を促すもので、これがないとストーリー解釈の取っ掛かりがない、ツッコミどころもないということになる。

あえてこの作品を通常の漫画のようにストーリーに力点を置いて解釈するならば、寓話として読むほかにないんじゃないだろうか。すなわち、少年を人間の、猫を自然の象徴として受け止め、飽くなき欲望にまかせて自然からありとあらゆる富を収奪して止むことのない人間といったような構図で……。なにしろ少年はこの出来事を game と呼んでいる。つまり、生存の必要に駆られてではなく、一回限りのものでもない、終わることのない資本主義の蕩尽ゲームとでもいったような……。自分で説明しながらしらじらしい気分にならざるをえない。こんな浅はかな資本主義批判を意図して作者がこの作品を考案したはずがないだろう。作中の表現のなかでどこにアクセントが置かれているかということに注目すれば、おのずからこの手の解釈は不毛だと思える。

通常のストーリー漫画を散文とするならば、この作品は詩のようなものとして解釈されるべきだろう。僕がここで「詩のようなもの」と言うのは、一瞬の感覚や感情、あるいはイメージを喚起することにこの作品の主眼があると思うからだ。岩にしみいるほどにうるさく鳴くセミの声のせいでかえって閑かに感じたという内容の俳句を読んで、だからどうしたとか、それからどうなったとか問うても意味がないように、この漫画についても描かれている出来事に対してストーリー漫画のようなストーリー性を期待しても仕方がないんじゃないだろうか。

この作品には二つの驚きの瞬間がある。一つは少年の正体について読者が知ることになる瞬間だ。少年が遠く離れた場所の様子を知ることが出来るという事実から、はじめ読者は彼が単純に超能力のような力を兼ね備えた人間であるように錯覚してしまうが、実は人間として欠損した部分のあることが終盤になって見て取れる。そこで初めて少年の目的を知ることになり、このおぞましい出来事そのものにギョッとすることになる。少年の姿の衝撃に思わず目を奪われてしまうだろうけれども、注意深く読んだならばこの時点である疑問を抱いていていいはずだ。すなわち、少年は自分の念頭にある対象が猫であるという事実に気づいていなかったんじゃないだろうかということだ。先に説明したように、彼は遠く離れた場所のことを把握したうえで心のつぶやきを読者に対して披露するんだけれども、「猫」という言葉は実は一度も使っていない。知らなかったと解釈するのが妥当だろう。次の驚きの瞬間、すなわち彼の取り乱した身振りと表情がその証拠だ。したがって、最初の驚きの前提となっている表現、すなわち左のページにおいて延々と同じ絵を使いまわしたことが、次の驚きを増幅させる仕組みになっていると言える。

絵は左のページが簡略化された筆致で描かれ、奥のほうから強い光が射していることを反映してほとんど影絵のようにディテールを曖昧にしたまま終始している。対照的に右側のページはメビウスの緻密な筆致で描かれ、左側のページで足りない情報を補うべく読者の凝視を誘うようになっている。つまり、この漫画の左右のページはそれぞれウエハースとアイスクリームのような関係になっていて、それを初めから終わりまで繰り返していることになる。メビウスの画力を活かすアイデアには違いない。しかし、作中でおそらく最も鮮烈で異様なものに違いないイメージは実は描かれていない。すなわち、結末で少年が見たものは実際には描かれず、言葉でも語られていない。与えられた設定から読者が想像するにまかせるということをやっている。これだけ大判の紙を使い、余白もあり余っているというのになんてもったいぶったことをしてるんだろうと愚痴りたくならないこともない。もっとも、作者が具体的なイメージを頭に描いていたかどうかはわからないが。

結論としては、作者の意図したところを自分なりに理解して堪能したうえでも、お世辞にも満足したとは言えない。こういうのは一回読めばじゅうぶんだよと思う。この大判といい、ストーリー性を棚上げした詩のような作風といい、効果の割にずいぶんと大げさで示威的なことをやっているように感じられてならない。メビウスが新しくページを仕上げるたび、ホドロフスキーは往復60マイルを行き来して観に行ったというが、僕には到底理解できそうにない境地だ。

Rating
5/10