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All-Star Superman, Vol. 1

All-Star Superman, Vol. 1: Cover
  • All-Star Superman, Vol. 1
  • Writer: Grant Morrison
  • Artist: Frank Quitely & Jamie Grant
  • Publisher: DC Comics
  • Release: September 2008
  • Size: 25.9cm x 16.9cm
  • ISBN: 9781401211028
  • Format: Softcover
  • 160 pages
  • $12.99

レビュー

やはりアメコミの華はなんといってもスーパーヒーローコミック。スーパーヒーローコミックも読まずにアメコミを語るなんぞ片腹痛いわと嘲笑する幻聴に悩まされ、寝苦しい日々も続いたので僕もスーパーヒーローに挑戦してみることにした。さて、スーパーヒーローと言えば……スーパーマンをおいてほかにあるまい。全世界的に異論のないところなんじゃないだろうか。そこで今回取り上げるのが本書ということになるんだけれども、ちょっと前置きをしておきたい。読み終わったあとの率直な気持ちから言いたいのは、僕はこの本のレビューを書くのにあまり適した読者ではないということだ。読んでいてどうにも引っかかる、いくら読み返してみても判然としない箇所が多い。まあ、スーパーヒーローコミックというのはそういうものなんだろうと覚悟はしていたけれども、読者にある程度の予備知識があることを前提にして描かれているのは明白だ。そして僕は今までスーパーマンのコミックを読んだことがないばかりか、映画すら観ていない。カートゥーン・アニメなど知るはずもない。これはそういう門外漢の書いたレビューだということをあらかじめ断っておきたい。そもそも、外国で出版された漫画には想定される読者層として僕が含まれている作品などひとつもないと言ってしまえばその通りなんだけれども、今回取り上げる本はこれまでにも増してそうだということだ。

All-Star Superman は、近い将来の自身の死を覚悟したスーパーマンの余生とでも言うべき日々を扱った作品。このトレードペーパーバックには初めの六つのエピソードが収録されていて、それぞれ焦点となるキャラクターを入れ替え、スーパーマンとのあいだの多様な人間関係を軸にして話を作っている。レックス・ルーサーによる壮大な悪巧みから始まって、その本人の死刑判決へと至る話のすじの大きな流れはあるものの、各エピソードには主立った登場人物が致命的な危機に立たされるような緊迫した出来事が必ず含まれていて、しかもそのエピソード内で解決している。言わば毎回がクライマックスのような作りになっていてとても充実している。

この作品世界に見られる高度なテクノロジーや、スーパーマンに代表される超人的な能力をどう表現するかということについては、工夫が凝らされていておもしろい。僕の目を惹いたのは、本来人間の五感によって捉えられないものを五感の対象に置き換える、あるいは五感の一つによって知覚されるものを別の五感の対象に置き換えるといったアイデアだ。レオ・クインタムが説明するところのエレクトロカインドという種族は光学言語とでも呼ぶべきものを持っている。光で文字を書くというのではなく、光を放つことが発話そのものになっているというもので、これは聴覚と視覚を置き換えるアイデアに基づいていると言える。神秘的で想像力を刺激する設定じゃないだろうか。ロイス・レインは誕生日のプレゼントとして身につけたスーパーマン由来の能力が徐々に消えていく様をまるで詩のように描写している。天体の放射する電波がもう「見えない」と言ったり、電波の放射を「歌う」ことであるかのように言ってみたり。単純な発想によるものかもしれないが、詩的に耳に響く。このようなSF的描写が魅惑的に思えるのはなぜなんだろうと僕は少し考えてしまった。似たようなほかのものには別に何の感慨もないが、エレクトロカインドの光学言語やロイスの能力の叙述が詩的なのはどうしてなのか、ということだ。例えば、メトロポリスを襲撃したトカゲ型モンスターの話す怪しげな英語にいくらかでも感銘を受けるという読者はいないだろう。ロイスは遠く離れたカナダの木々の匂いがもはや感じられないということも言っているが、これは電波の放射についての先の叙述にくらべると、僕の耳にはあまりロマンティックに響かない。どうしてなのかと考え込んでしまったけれども、仕組みそのものは別にどうということはない。発話が音声に拠らざるを得ない普通の人間にとっては光学言語はメタファーとして受け取らざるを得ないからだ。ロイスが失った能力についても同様で、電波を見ることも聞くことも出来ない生身の人間にとっては、彼女の叙述はメタファーとして受け取らざるを得ない、ということだ。こういう考えに至ると、逆に作者はひょっとしたらあちこちでこういったアイデアを使いまわしているのかもしれないなどと邪推してみたくもなる。

この作品世界では、現代の水準をはるかに超える高度なテクノロジーが存在する一方で、前時代的な子供っぽい空想をそのまま具現化したような荒唐無稽な設定も見られる。三番目のエピソードでメトロポリスを襲撃したトカゲ姿のモンスターの集団は、なんと地下からやってきたことになっている。この世界の人びとは地球の内部に言葉を話すトカゲの集団がいて文明を築いているという事実をどう受け入れているんだろうか? 結局のところは一人の生身の人間に過ぎないレックス・ルーサーよりも、地底人の存在のほうがよっぽど人類にとって脅威なんじゃないのか? 「地中へ潜って絶滅を免れた恐竜の末裔ね!」などと、ピュリツァー賞を取るようなジャーナリストが納得してしまっていいのか? こういう荒唐無稽な部分はあまり深刻に捉えずに、単純にスーパーヒーローの活躍の舞台をお膳立てするための口実に過ぎないと受け止めて軽く流せばいいのかもしれないが、人びとの生死についてのリアリティがぼやけてしまうのは、この作品のテーマを念頭に置くならばあまりいい設定だとは思えない。

収録されている六つのエピソードはそれぞれ中心的に取り上げられるキャラクターを替えて話が作られている。初めのエピソードはスーパーマン自身であり、次はロイス・レイン、三つ目はその双方、以降ジミー・オルセン、レックス・ルーサー、スーパーマンの育ての父親、というふうに。すべてのエピソードに共通しているのはどれもスーパーマンにとって最期を迎える前にふさわしい、人間関係の清算もしくは再確認とでも言うべき出来事が用意されていることだ。たとえ、スーパーマン自身がそう意図しなかった場合でも結果的にはまるで思い出作りのようになっている。キャラクターに着目すると、そういうエピソードが揃っていると言える。したがって脇役のキャラクターが中心となるエピソードであっても、あくまで話を組み立てる軸となるのはスーパーマンとの関係だ。

最初のエピソードでは、致命的な運命を受け止めるスーパーマンが描かれていて、言わばスーパーマンの自分自身に対する関係が軸になっている。レオ・クインタムは自ら指揮するP.R.O.J.E.C.T.においてスーパーマンの死後に備えた計画が進んでいることをその本人に対して説明しているが、このくだりは誰でも読んでいて多かれ少なかれ気に障るはずだ。普通は、その人が亡くなっても困らないように着々と準備をしているなどということをその本人に面と向かって言うのは失礼だからだ。もちろん、スーパーマンと生身の人間とは事情が異なるだろう。スーパーマンも自分が占めている特殊な立場の意味をよくわきまえていて、Smart thinking などと言って褒めている。しかし、読者にはいったいどこまでスーパーマンが自分の死について割り切れているのかわからないため、どうしても懸念が残る。このことが、読者に対してスーパーマンの腹を探らせる視点を持たせ、寡黙なスーパーマンの言外に含むところを想像させる根拠になっている。そしてこれ以降のエピソードにおいてもこの視点を踏まえて読むことが前提になっていて、それぞれの場面で見られる出来事に表面的な文字通りの意味に留まらないスーパーマンの本心を読み取らせるようになっている。例えば、五番目のエピソードでスーパーマンが新聞記者クラーク・ケントとしてレックス・ルーサーにインタビューをする場面では、前述したようにスーパーマンが致死の危険にあるということをふまえて読むと、スーパーヒーローとしての社会的な役割を超えたスーパーマンの人間性が良い意味でも悪い意味でも滲み出ていると言えないだろうか。レックス・ルーサーに対して、「スーパーマンと友達になることだって出来たはずだ」とまで言っている……。ただ単に悪人の更生を期待した台詞ではなく、どちらが先に死ぬかわからない条件における最後の会話としてこう言っているわけだ。

ロイス・レインの立場からスーパーマンの豹変が語られる二つ目のエピソードは、誤解が元で悲劇的な結末へ至ろうとしているカップルを描く安っぽいメロドラマのような筋立てになっている。互いが腹を割ってすべて話し合えば大事になるはずがないのに、秘密を保たなければいけない事情があってそうできないということ、そして読者から見てロイスのほうに誤解があるということを示唆した描き方をしているのがその理由だ。これが六番目のエピソードにおける未来からのスーパーマンたちの正体のように読者をも騙す描き方をしていたならばもっとロイスの言動に説得力を持たせることが出来たに違いない。それでもこのエピソードがよく出来ているのは、思い詰めたロイスが究極的な行動を取ってしまうことを支持する要因としてロイス・レインというキャラクターの設定やこの時点で彼女が置かれている状況など、さまざまな条件がごく自然に総動員されていることだ。いかにも怪しげな状況的証拠があり、また彼女の職業柄やプライドなどキャラクターの特徴が彼女の疑念と大胆な行動を促すものであり、さらに何と言っても女性であるということを挙げなければならない。モンスターの子供を身ごもらされるかもしれないという恐怖は女性ならではのものだ。

四番目のジミー・オルセンのエピソードは全体の中では異色だ。その理由の一つは内容が最初のエピソードで描かれたスーパーマンの致命的な危機と何の関係もないということだ。スーパーマンが別人のように変化してしまうんだけれども、これは例のルーサーの悪巧みとは無関係のものとして描かれている。もう一つの理由は、ロイスとルーサー、そして育ての父親が焦点となるほかのエピソードではスーパーマンのほうからそれぞれ積極的に働きかけていったのに対して、このエピソードではスーパーマンは偶発的な事故に巻き込まれる形でジミー・オルセンと絡んでいるということだ。そのため、全体の中でこのエピソードをどう意味付けすることが出来るのか、はじめはよくわからなかった。このエピソードは実は落語のオチのような効果を持つ筋立てで出来ている。話の終盤で、ジミー・オルセンが腕につけているシグナル・ウォッチをクローズアップで映したコマがある。ジージーと音を立てている、それだけのコマなんだけれども、ここで初めてこのエピソードの持つ意味が明らかになる。この一つのコマだけでジミー・オルセンがスーパーマンにとっての親友であり、おそらくはロイス・レインの次に重要な存在であるに違いないということまで推測させる。僕が、本書に収録されているエピソードすべてを指して「たとえ、スーパーマン自身がそう意図しなかった場合でも結果的にはまるで思い出作りのようになっている」と前述したのはこの箇所をふまえてのことだ。

レックス・ルーサーはフィクションのキャラクターという意味では最も魅力的な存在だ。ルーサーの言い分ではなぜスーパーマンを敵視するのかという理由が必ずしも一貫していない。ある時は自分の邪魔をするからだと言ってみたり、またある時は人間には決して到達し得ない完璧な存在だからだと言ってみたり。しかし、この男の言い分にはただの底意地の悪さや嫉妬で片付けられない部分がある。インタビュアーとして付き添っているクラーク・ケントに鍛えた腕の力瘤を見せる印象的な場面があるけれども、これをスーパーマンの超人的な力の前では無意味なことだとして笑うにはちょっとためらいがある。ルーサーの自助努力そのものは誰にも否定できないからだ。自分の体は自分で鍛えなければ強くならない。自分の頭は自分で学ばなければ賢くならない。根本的なところでは健全な思想がテロリズムに至ってしまう、そのあいだを狂気が満たしている。読者はある程度にまではこのテロリストに肩入れし、ある程度からは到底付き合いきれないと愛想を尽かすだろうけれども、ある一瞬はまるで狂気をともにしているかのような感覚が煽動的で、このキャラクターが魅力的でもある所以だ。

最後のエピソードに登場するスーパーマンの育ての父親は、僕にとってはあまり面白みのないキャラクターだ。理想的な良き父親像をなぞっただけにしか見えない。帰郷した息子との心温まるやりとりなど、誰がシナリオを担当していても大して代わり映えしないんじゃないかと思える。スーパーマンやレックス・ルーサーが極めて人間的であるのに対して、この父親はただ理想的な存在であるだけだ。たとえば、僕が興味があるのは結局のところ人間ではない子供を拾って育てたということをどう思っているのか、その辺り葛藤はなかったのか、そういうことが知りたかった。このエピソードで帰郷したのがスーパーマンではなく、ごく普通の人間の息子であったとしても、この親父さんの立ち回りは同じようなものだったに違いない。

筋立ての上で最も重要なのは、その後の話の展開を決定付けているという意味で、そして込み入った場面転換が効果的にテーマを浮き彫りにしているという意味で最初のエピソードということになる。この最初のエピソードを含む本書の冒頭の部分は、初めて読む僕にはずいぶん妙な感じがした。一つは本編が始まる前のスタッフのクレジットなどが表記されたページだ。これは往年の名作の復刻などではなく、つい最近の作品だ。にもかかわらず、まるでお前がこれから読むのは名作なんだぞと出版社から耳元で囁かれてるかのような、何かもったいぶった感じがするのは何故だろう? 頭の中で壮大なBGMを流しながら読まなければいけないような気がするのは何故なんだろうと不思議に思った。その原因は、一度印刷されたイラストを拡大したうえでレイアウトしていることにある。作品の古さに関わらず、元のイラストを印刷の粗が見えるくらいに拡大して貼り付けると何故かその作品が名作であるかのように感じられる不思議な効果がある。僕が妙に感じたのは本書の冒頭でこれをかなりしつこくやっているからだ。コミックブック形態で刊行されたときにどれだけ好評を博したのか知らないが、ちょっとやりすぎなんじゃないのと思う。ちなみに僕はこれをコンプリート・ピーナッツ効果と勝手に呼んでいる。別にシュルツの絵にケチをつけたいわけじゃないが。

もう一つ妙に感じたのはスーパーマンの様子だ。表情が微妙に場面にそぐわないように感じられた。初めはこれがアーティストの癖や絵柄の個性のようなものなのかと訝ったけれども、そうではない。実はとても重要な意味を持っている。僕が妙だと言っているのは、見開きの二ページで太陽の表面を背景に飛んでいるスーパーマンと、宇宙船へ助けにやってきた際のスーパーマンのそれぞれの表情だ。どちらも緊急事態の割に焦っている感じがせず、穏やかな印象を受ける。この二つのあいだには、太陽のそばを飛ぶスーパーマンが明らかに顔をしかめているコマがあるけれども、前者の見開きのほうのスーパーマンの表情は熱さに顔をしかめているのではなく、物憂げな含みのある表情だ。そして宇宙船へやってきて内部を覗き込んでいる後者のほうはとても温和で、致命的な危機に臨むといった風情ではない。どちらも決して心ここにあらずといった散漫な面持ちではないが、やはり場面にそぐわないように思える。後者のほうはページの四分の三ほどもある大ゴマを使っていてどんな読者にも強烈な印象を与えるんじゃないだろうか。ここでスーパーマンは Not if I can help it. と言っている。これから爆発して乗組員を死に至らせようという自爆モンスターの台詞を受けて、自分がそれを妨げることができるならばそうはならない、要するにそんなことはさせないという意味のことを言っている。したがって、語りかけている相手は味方ではなく、あくまでレックス・ルーサーの送り込んだ自爆モンスターだ。にもかかわらず、顔つきは温和そのもので怒りも険しさも微塵も見えない。これから戦おうという猛々しさもない。前者の見開きのほうだけだったならばあまり強くそうだとは主張できなかったかもしれないが、この後者のコマに至ってもうはっきり作者が意図してこういう表情をさせているんだということがわかる。傍証的な根拠はこのコマの独特の構図で、ここにはスーパーマンしか描かれていない。緊急事態にスーパーマンが間一髪で助けに来たという状況を描くのであれば、本来は、あるいはありがちなやり方だったならば、味方と敵も含めた構図になるだろう。つまり、もっと引いた視点で前景に乗組員と自爆モンスターを、そして後景にスーパーマンを配置した構図で描くことが出来たはずだろうと思える。僕はここで、スーパーマンの登場によって安堵の表情を浮かべる乗組員を一緒に描かなければ、読者に正確に状況が伝わらないなどとケチをつけたいわけではない。このスーパーマンの表情に嫌でも注意を向けさせる構図は何なのか? まるで揺りかごを覗き込む父親のような温和な表情は何なのか? 初めて読む際にはいくら考えてもわからないが、事態が収拾したあとのレオ・クインタムの報告によって明らかにされる。スーパーマンの体が致死の危機に至ったということは、本人にとって寝耳に水ではなく、自分で気づいていたことだと解釈すべきだろう。ページを遡って、すでに太陽のそばを飛んでいる時点でもう本人は気づいていたに違いない。やけに温和なスーパーマンの表情は死を覚悟した上でのものだということだ。そう考えるとさらに冒頭の四コマも意味付けが変わってくる。僕は初め、この冒頭に置かれた四コマでスーパーマンの生い立ちが描かれているのは、僕のように不案内な読者に対して簡潔にスーパーマンというキャラクターを紹介するため、作者が便宜的に挿んだものなんだろうと思った。なぜならそのすぐ後に続く展開と何の関係もないように思えたからだ。しかし先のことをふまえると、これは死を意識した上での追憶だったということがわかる。したがって、この最初のエピソードは自爆モンスターをどう退治するかとか、太陽の探索調査が成功するかどうかといった表面的な出来事が重要なのではなく、あくまでスーパーマンの心理にそれとなく読者の注意を向けさせ、読者の想像に訴えてスーパーマンの言動に意味付けをさせる、そういう重要な役割を持っていると言える。もっと即物的な、悪者退治の物語を予想していた僕のような読者にはかなり鮮烈な印象を与えるエピソードだ。

各エピソードは毎回が全体のクライマックスであるかのような盛り上がりを見せてくれるんだけれども、そういったストーリーを組み立てる上でのわざとらしさもしばしば伴なっている。一つはキャラクターの行動に無理があったり、常軌を逸していたりする点だ。二番目のエピソードでロイスの取った大胆な行動について、その状況的で客観的な根拠が揃っていることを前述したけれども、しかしロイスの立場に身を置いて考えるともう一つ迷いや焦りのようなものがあってしかるべきだとも思える。行動そのものがおかしいとは言わないが、最後の一歩手前で踏みとどまらせる心理がどこかで働いてもいいはずだ。彼女の行動には躊躇がなさすぎる。三番目のエピソードではサムソンとアトラスというボンクラ・ヒーローが余計なことをしていなければトラブルは起こり得なかった。この二人はモンスター退治の実力はあっても頭の中は子供同然だ。もともとこういう間抜けなキャラクターなのか、この作品でそういう設定にされているのか知らないが、スーパーマンの友人としてはあまりにも幼稚で、あつらえた引き立て役にしか見えない。もう一つ、ストーリーの上でわざとらしく、不自然に思えるのはトラブルを未然に防ぐ安全管理体制の甘さが目立つということだ。四番目のエピソードではジミー・オルセンがP.R.O.J.E.C.T.の臨時ディレクターを務めているが、なぜ一介の新聞記者がああいう危険な施設の責任を負う立場になるのかわからない。芸能人の一日駅長のようなものかもしれないが、名目だけの就任に留まらず、危険な現場に赴かせてしまっている。実際、巨大なお椀のような設備を用意して、命綱もなく、足場も不安定で骨組みも脆い、いかにも危なっかしい縁の部分にわざわざ登らせて、案の定、その中に落ちかけてスーパーマンを呼ぶ羽目になるというバカなことをやらせている。安全管理ということでもっと不思議なのはレックス・ルーサーが拘置されている刑務所だ。凶器になりうる工具が自由に使える状況にあるのはどういうことなのか。また、どう見てもモンスターにしか見えない紫色のぶよぶよしたキャラクターがほかの人間の囚人たちと同じ場所に連れてこられたのは何故か。モンスターにも市民としての権利があって、つまり人間と同様に囚人として扱われるからだというのならば、それは嘘臭く聞こえる。あんな気色悪いモンスターを人間と同等に扱う寛容な社会は想像しがたい。

作画については人物の体の線の筆致が、特に顔の描写が圧倒的。ジミー・オルセンがシグナル・ウォッチをレオ・クインタムに向かって説明するときの思わずほころぶ嬉しそうな表情には、まるで実際にモデルを用意してスケッチしたかのようなリアリティがある。その一方で、写真をコンピューターで安直に加工したときにありがちな、自然な手描きの線と調和しない硬さはどこにもない。単にキャラクターデザインが漫画的なデフォルメとは対照的で、写実的なリアリティを追求しているというだけではなくて、状況に応じて実際によく見かけるような表情をさせているところに目を奪われる。帰郷したクラーク・ケントが学生時代の友だちと記念写真を撮る際の笑顔は驚異的と言っていいくらいだ。「友人たちと一緒に写真に収まるときの作り笑いの表情」を描けと命令されて、漫画家が誰でもこのように描けるとは限らないだろう。記念写真として後まで残すことを考えれば必ずしも良い笑顔とは言えないが、とても自然で、しかし明らかに作り笑いをしている。その作り笑いをする顔の筋肉の緊張の具合が程よくて互いの仲の良さを窺わせるとでも言ったらいいだろうか。現実をよく模倣できているというより、現実を思い出させてくれるような表情だ。全般的に表情がリアルで迫力がある根拠としては、顔の表面の微妙な凹凸にまで陰影を施しているということも挙げられる。白黒の漫画ではこうはいかない。僕はコンピューターを使った作画にありがちな色の濃淡や明暗などの正確すぎるグラデーションが嫌いで、それが原則的にフルカラーのスーパーヒーローコミックをこれまで敬遠していた理由の一つであり、この本も買ってすぐには読まずに置いといた理由でもあるんだけれども、これくらいに細かく丁寧にやられると文句も出ない。

人物が魅力的に描かれている一方で背景はそれには及ばない。自然物はともかく、ビルの建ち並ぶメトロポリスの風景など人工物はあまりにもシンプルすぎてつまらない。特にデイリー・プラネットの社屋は元からのデザインのせいもあるにせよ、まるでおもちゃのように見える。遠景ではむしろ細かく描き込まれていて文句はないが、キャラクターが建築物の中にいる場面では殺風景な箇所が多い。特にレックス・ルーサーのいる刑務所の内部はひどいもので、何もないまっさらな壁ばかりだ。細かな傷や落書きが散見されたり、そもそも色付きで描かれていることからあまり気にはならないかもしれないが、本当はもっとこまごまとした物があっていいはずだろう。

この作品の中で使われている英語は必ずしも簡単とは言えないだろうと思う。僕が使っている簡単な英和辞典には載ってない語句もあり、ウェブで自由に使える英英辞典や語学関連のフォーラムの過去ログなどに頼らなければわからなかった箇所も多い。もともとスーパーマンの作品世界に不案内ということと同じくらいに読む上で苦労させられた。

全体を細かく見ると、僕にとってはキャラクターの言動が意味不明に思える箇所がいくつもある。そして、それらの多くがスーパーマンに慣れ親しんだ読者にとっては別に問題にならないんだろうとも思える。それでも、大きな話のすじを理解する上では特に支障はなく、僕のような丸っきりの初心者でもかなり楽しめる一冊と言えるんじゃないかと思う。僕はスーパーヒーローコミックはエッセンスだけ読めればいいと思っているんだけれども、これがそのエッセンスのうちの一冊に違いないということは、仰々しい宣伝文句に拠らずとも実際に読んでみて確信することができた。

補足(2010年11月5日)

TinyOgreのレビューを見て、六番目のエピソードがクラーク・ケントの学生時代の話であるということに初めて気がついた。親父さんがクラークのことを指して He's studying to be a journalist. と言っていたり、スーパーマンがカル・ケントに対して初めて遭ったかのような驚き方をしていたりする点については何だかおかしいなとは思っていたけれども、僕がこの本の中で奇妙に感じられるところはほかにいくつもあるのであまり深く疑問に思わなかった。

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9/10