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Saga of the Swamp Thing, Book One

Saga of the Swamp Thing, Book One: Cover
  • Saga of the Swamp Thing, Book One
  • Writer: Alan Moore
  • Artist: Stephen Bissette, John Totleben, et al.
  • Publisher: DC Comics/Vertigo
  • Release: February 2009
  • Size: 26.5cm x 17.8cm
  • Format: Hardcover
  • ISBN: 9781401220822
  • 208 pages
  • $24.99

レビュー

スワンプシングはアラン・ムーアのアメリカにおけるデビュー作となったシリーズで、これはその#20から#27までを収録したもの。人間と植物が融合したような姿を持つ怪物スワンプシングの誕生の由来とその後の人間社会との関わりを描く怪奇漫画。ホラーを基調としながらも、話のすじに応じてまるで異なるジャンルの作品であるかのように趣を変えつつ語られていく。この得体の知れない怪物の謎が明かされる序盤は、その漫画的なリアリティが巧妙でとてもおもしろい。しかし、以降の筋立ては、スワンプシングの抱えている深刻な問題を棚上げして、直接には関係のないトラブルに対処するため彼を奔走させており、ずいぶん間延びした内容になっている。バラエティに富んだ面白さとでも言えば聞こえはいいかもしれないが、正直に言えば微妙な出来のパッチワークのような一冊だ。

植物の茎や根の塊が人の姿をかたどったように見えるこの怪物的な存在は、実はその見た目ほど単純ではない理屈でもって創りあげられている。本来ならば恣意的な空想にゆだねられても構わないはずのこの手の怪物の誕生と生存の不可思議な原理について、作者は漫画的なリアリティを巧妙に組み立てている。これはどんな土壌でも生き長らえる繁殖力の強い植物が人間の肉体に根を張ったとか、あるいは食虫植物が人間の肉体を取り込んで同化したとかいうような、人間と植物との単純な融合とはまったく異なる独特のアイデアに基づいている。スワンプシングについての謎は二つある。一つは植物の茎や根っこの塊が人の姿をして活動しているということの謎であり、もう一つはそれが死んだはずの人間アレク・ホランドの再生にほかならないということの謎だ。どちらも現実には起こりえないことであり、<嘘>であるわけなんだけれども、この二つの<嘘>は互いを支えることで成り立っている。読者がこのスワンプシングなる怪物の設定を荒唐無稽だとして退けることなくリアリティをもって読めてしまうのにはわけがある。一つ目の謎については、この作品のなかで人間の身体の各器官を構成する細胞が持つさまざまな情報の総体を、物質化された身体の設計図のように見立てているということが前提になっている。とは言っても、ここではDNAを解析して組み込むというような高度な生物化学的操作を伴うわけではない。つまり、人間が牛の肉を食べても牛に変化したりはしないのと同様に、植物が人体を肥やしにしても人の形になることはありえない。作者はこの矛盾をかわすべく、登場人物の口を借りて生物学や人類学の知識を援用することによって上手くごまかしている。さらに、その身体の設計図による復元が結果として中途半端なものに留まっているということがかえってこの漫画的なリアリティを増している。二つ目の謎については、一般的に言って、人間にとっての意識というものが、生命と記憶とのあいだで相反する観念を受け入れられるほどに曖昧に位置付けられているという事情が前提になっている。つまり、人間の意識が一つの生命に固有のものであるという考えが誰にとっても疑いのないものであるにもかかわらず、ある人間の記憶をすべて取り込むことが出来たならばまるでその人間の固有の意識まで復元できるかのように思えてしまうところにリアリティの根拠があると言える。現実には、例えば他人の脳細胞を移植することによって未知の知識を獲得したり、実際には経験していない出来事の記憶を保持するようになったりということは実現していないわけだけれども、想像するぶんには科学が発達すればいつか実現するかもしれないと期待させる程度にはリアリティがある。これは記憶というものに物質的な根拠があるという、決して間違ってはいないが、それだけでは中途半端に過ぎない科学的認識のせいだと言っていいだろうと思う。「物質的な根拠がある」という部分を漫画的に誇張すれば、この怪物が誕生する条件の半分を満たしたことになる。

スワンプシングの独特の設定は、それ自体がよく出来たアイデアであるというだけではなく、筋立てにおいてもそれなりに活かされている。この主人公は初めのエピソードで読者にその異様な姿をさらしてまもなく激しい銃撃によって文字通り蜂の巣にされてしまう。どう見ても即死としか思えないほどの重傷を負いながらなぜ生きていたかということ、そして次のエピソードで仮死状態のまま再び登場する彼が特別な蘇生手術など施されることなく生き返ってしまうこと、これらの不思議な現象は彼が想像上の生き物であるという恣意性によるものではない。実はこのスワンプシングの特徴を知りさえすれば幼い子供にでも理解できるほど単純で合理的に説明のつくものになっている。しかしながら、主人公についてのこういった凝った設定が本当に有意義に使われているのは第2章の The Anatomy Lesson とその前置きにあたる第1章の Loose Ends に留まっている。終盤の3章に至っては、そもそもスワンプシングが主人公である必然性がまったくない。また、それとは逆に設定がかえって興醒めの元になっている部分もある。後半になってから、スワンプシングの物憂げな様子とともに秋の訪れが仄めかされる場面がいくつか出てくる。これについてなるほどと納得するのか、失笑とともに馬鹿馬鹿しいと思うのか、ひょっとしたら読者のあいだで反応が割れるのかもしれないということが僕にはちょっと驚きだ。少なくとも作者はここで読者を笑わせるつもりなどないに違いない。設定がどんなに凝ったものであろうが、それがどんな理屈に基づいていようが、結局のところこの物語の主人公は想像の産物でしかない。作品のなかで表立って言及されることはなくとも、実際には恣意的で非科学的な<嘘>に満ちた存在だ。もちろん読者はそんなことを百も承知でこういったフィクションを楽しむわけだ。茎や根っこの塊の化け物が秋の訪れを気にかける、つまり枯れてしまうことを恐れるというのは、部分的な設定に必要以上に固執しているように思えてならない。所詮はフィクションのキャラクターなんだからそこらへんはどうでもごまかせばいいじゃないかと思ってしまう。このあたりの主人公の設定に関係する几帳面さは僕には違和感なしに読めない部分だ。同じことは、スワンプシングと部分的に似た側面を持つキャラクターであるフロロニックマンことジェイソン・ウッドルーにもあてはまる。ウッドルーが街の人びとを恐怖に陥れる場面で彼がどんな手段を用いるのかということについて僕が思うのは、与えられたキャラクターの設定をじゅうぶんに活用するということに苦心するあまりに馬鹿馬鹿しいほど遠回りをさせているという不自然さでしかない。

この作品の登場人物には、実はスワンプシングのほかにも普通の人間とは異なるファンタジーの世界ならではのキャラクターがたくさんいて、そのことが主人公の境遇の深刻さを損ねてしまっている。現実世界にはどこを探しても体が草木の塊になってしまった人間などいるはずもないが、この作品のなかではそれと同等かそれ以上の異形の存在がいくらでもいる。このことはたとえどんな理由を持ってきて正当化しようとも、怪物スワンプシングとなってしまった主人公アレク・ホランドの苦悩の重さを軽くすることさえあれ、決して増すことはないだろう。いや、本人にとっては自分のほかに異様な姿をしたものがいるかどうかなど、自分の抱えた問題の重さになんら影響を及ぼさないかもしれない。しかし、少なくとも読者にとってはそうではない。ごく普通の人間アレク・ホランドが怪物スワンプシングへと変貌を強いられたことの持つ意味をありのままに、つまり文字通り深刻に受け止めたあとに、頭の上がボーボーと燃え盛っているスーパーヒーローだとか、顔は半魚人のようで頭に角が生えていて、背中にマントをまとって足に靴を履いている、人の言葉を話す猿のようなわけのわからないキャラクターの存在を受け入れるというのは難しい。すんなり受け入れられるのはこの手のキャラクターが跋扈するスーパーヒーローコミックに慣れ親しんだ読者だけじゃないだろうか。作品の根幹を成す設定から見れば、スワンプシングのほかはすべてリアリズムでもって作られたキャラクターで脇を固めたほうが良かったに決まっている。もちろん、すべてのキャラクターは話の上で必要があって登場するわけで、登場したからにはおのおの特徴に応じた役割を果たしてはいる。しかしながら、この本のなかに登場する異形のキャラクターで本当に有意義と言える存在はフロロニックマンこと、ジェイソン・ウッドルーただ独りだけでほかはみな実質的に必要がない、あるいは話の上で必要があって登場はしているけれども、僕はそのエピソードを少しもおもしろく思わないというものばかりだ。

頻繁に登場するキャラクターのうち、主人公及び彼を助ける立場の女性のふたりはキャラクターとしてあまりよく描けているとは思えない。主人公アレク・ホランドは純粋な被害者であって、その意味では誰でも共感できる立場にあるけれども、それ以外の側面で彼の人間性を、彼の個性を際立たせる場面がない。特にスワンプシングの姿となってからの身の振り方、そしてアビゲイルとの関係をどのように考えているのかということが、元の生身の体のときの関係も含めてよくわからないのが不満だ。つまり、夫がいるアビゲイルとなぜ懇ろな関係にあるのか、そしてそのことをどう思っているのかということ、まともに社会的な生活を営むことが不可能な姿恰好でこの先どうするつもりなのかということがよくわからない。スワンプシングと化したアレク・ホランドの内面はたびたび挿入されるグロテスクな悪夢によって描かれているものの、とても充分とは言えない。この一連の悪夢は草木の塊となったアレクの境遇に対するかなり辛辣な風刺になっていて、結果的に絶望もしくは諦観とでもいった境地へと彼を追いやっている。しかしながら、それでも現実に生存して人間社会と、特にアビゲイルと関わりを持ち続けているということの実感が希薄で、キャラクター描写として物足りなく思う所以だ。スワンプシングの姿で社会的な生活を送るのはどう考えても不可能なわけで、選択肢は限られているにもかかわらず、ずいぶんのんびりしているように見えるのが奇妙だ。別の言い方をするなら、もしスワンプシングのように体が草木の塊になってしまったら、絶望のあまり自殺するか、あるいは自分をそんな怪物へと変貌させることになった事件の黒幕を探し出して復讐するか、そのどちらかしか考えられないと思うんだが、この主人公は不思議と順応しているように見える。序盤でおいて彼がその身を襲った理不尽な仕打ちに対する怒りを爆発させたところまでは読者の誰しも彼に共感することが出来たに違いない。しかし、その後まるで悟ったかのように大人しくなり、余生を過ごす老人のような諦観に至っていることに違和感を覚える。「激怒」から「諦観」までには千里の径庭があると思うんだが、その過程がまったく描かれていない。スワンプシングがその怒りを爆発させてから再び読者の前に姿を現すのはすでに諦観に至ってからのことだ。この違和感はスワンプシングの姿となってから現実世界で生活するということの実感が省略されていることによるものだろうと思う。亡くなった奥さんへ寄せるアレクの哀切な感情が、その姿恰好の点から見てどれだけ絶望的なものであるかということは彼の悪夢の中で描かれているけれども、これはあくまで幻想的な観念の世界で再現された感情であって、彼が生きている現実世界の実感ではない。

アビーこと、アビゲイル・ケーブルは主人公を慕うヒロインのような立場にあるキャラクター。作者が彼女の精神の問題とそれ以外の要因とをはっきり区別する描き方をしていないため、いくらか混乱した印象を与えるキャラクターになってしまっている。アビーの夫はホログラムのような幻覚を作り出す謎の能力を持っており、それが暗に彼の性的な妄想の充足と関係していることが仄めかされている。のみならず、彼は読者の視点からは明らかに嫌気を催す性格の男として描かれている。奇妙なのはそれでもアビーは夫のことをそれほど嫌悪してなくて、夫婦仲が疎遠になっていることの原因が自分にあるという見解をアレクとの会話のなかで披露している。夫が持つ夢とも現とも定かではない謎の能力が彼女の精神を苦しめているということなのか、それとも彼女の幼少以来の空想癖によるものなのか、あるいはその両方と見なすべきなのか。いずれにせよ、読者の視点からは明らかに異常と映る夫のことをそうは思っていない時点で彼女はかなり奇妙だと思える。彼女自身が問題を抱えていることを意識していて克服すべく取り組むのは結構なことなんだけれども、それはポジティブなキャラクターとして好意的に評価したいというよりも、むしろただ単に精神を病んでいる気の毒な人といった感想しか出てこない。

登場人物のなかでキャラクターとして最もよく描けているのは、悪役ジェイソン・ウッドルーだ。囚われの身分での面従腹背から謀殺の愉悦に浸る冷酷さ。人間を忌み嫌う一方で、自らと似通った性質を持つスワンプシングへ慈しみをもって寄り慕う様子。怒れる大自然の預言者を自認し、暴虐を正当化する尊大さ。そして最終的にその力を失って再び囚われの身となることを恐れたときの狼狽と媚びへつらい。ウッドルーの目まぐるしく変わる態度は、強大な権力を頼みにして自分自身の存在を見誤る卑小な人間そのものであり、まさに人間的というほかない。役どころとしてはほとんどピエロのような立回りに留まっているこの男が最も人間味溢れるキャラクターであるという時点で、この漫画のその他のキャラクターたちの平凡さが知れるというものだ。

収録されている八つの章は話のすじの上で三つに分けられる。初めの二章を序盤、次の三章を中盤、終わりの三章を終盤とすると、序盤は死んだはずの人間が生き返るゾンビ映画的なホラー。

  • 1. Loose Ends
  • 2. The Anatomy Lesson

中盤はモンスターが街を襲って恐怖に陥れるパニック映画的ホラー。

  • 3. Swamped
  • 4. Another Green World
  • 5. Roots

終盤は謎の予知能力者と異世界から召喚された魔物が跋扈するサイコ・ホラーとなっている。

  • 6. The Sleep of Reason
  • 7. A Time of Running
  • 8. By Demons Driven!

一口にホラーといっても序盤、中盤、終盤でそれぞれ対象が異なる。序盤の後半部にあたる The Anatomy Lesson では主人公自身がホラーの対象であり、前の章の Loose Ends はほとんどお膳立てに過ぎない。この本を読み始める読者は「スワンプシング」というタイトル及び不気味なモンスターの描かれた扉絵などから、そういう名前の怪物が大暴れしたり、それを主人公が退治したりすることがストーリーの中心となる内容なのではないかと予想するかもしれない。第一章はそういった読者の予想を裏切って、怪物自身が主人公であり、しかもその外見とは裏腹に極めて理性的な存在であることが明かされる。つまり、見た目は怪物だけれども実際には人間そのものじゃないかと思い込ませることが重要なポイントになっている。出版社のサイトに拠れば、#20の Loose Ends が再録されるのは今回が初めてということらしいが、次の章でスワンプシングが奇跡的な蘇生を果たすクライマックスのくだりは、第一章を踏まえた上で読むのといきなり第二章から読むのとでは印象が異なるだろう。第一章の結末で蜂の巣にされてしまい、まず助かる見込みがないと思えた見た目は怪物的な人間が、人間的である以上は奇跡というほかない蘇生を遂げるのと、初めから死んだ状態で登場した怪物がたとえ元は人間だったとしてもあくまで怪物として蘇生を遂げるのとでは、その衝撃の度合いが微妙に異なるはずだ。

中盤はウッドルーが街を襲い、さらに全世界に危機をもたらすに至るストーリー。ここで登場するJustice League of Americaの面々は、ウッドルーのもたらす被害が地球規模に及んでいることを彼らのスーパーヒーロー的な能力によって把握して読者に説明する役割を果たしている。彼らのいいところはあまりでしゃばることなく、しばらくして退場してくれることだ。また、ウッドルーによる騒動の勃発が、一度は自然へ還ることを願ったスワンプシングを人間世界へ引き戻すことにもなっている。そうでなければ話が終わってしまう。

終盤はいちばん余計で冗長に感じられる部分だ。自閉症の子供たちを収容する施設でアビーが職を見つけ、ひとりの子供の抱えた深刻な問題がクローズアップされるという内容。地球上の誰も彼ほど深刻な問題を抱えてはいないと言えるスワンプシングの観点からすれば、脇役のひとりである平凡な女性のアビーが話の前面に出てきて、自分の抱えた精神的な問題に取り組むことと、自閉症の子供など他人の抱えた問題に取り組むこととを関連付けて考え、施設で子供たちのために働くという選択をしたことそのものがどうでもいいことに思えてならない。アビーがどんな仕事に従事するかとか、自閉症の子供がどうやって問題を克服するかなど、自分の体が草木の塊になってしまった男にとって取るに足りない些事ではないのか。

絵柄はホラーに似つかわしく、恐怖に慄く人物の口からトウモロコシのように粒の揃った歯並びが覗くような細密なスタイルをとっている。人物の顔に櫛の歯のような影を多用するので素のままでも不気味な雰囲気をもたらしている。スワンプシングの造形は、類人猿のように丸く隆起した頭部や、削がれたように見える鼻の部分が異様な印象を与えている。また、体表を這うように絡み付いている木の根が怒張した血管を思わせ、寡黙なキャラクターの心情を量らせるのに役立っている。ページのレイアウトは実際に読み進める上で効果的というよりも、むしろ装飾的な意図によるものが多く見受けられる。見開きの左右のページにおいてコマの外の部分に対称的になる絵柄をそれぞれ配置するということをあちこちでやっている。

漫画としての内容はさておき、この本の造りは妙にちぐはぐしたものになっている。購入したあと初めて中身を確認するつもりで手に取ったとき、いきおい余って思わず放り投げてしまいそうになった。ハードカバーの本にしてはあまりに軽すぎたからだ。ひょっとして中身のページがごっそりとくりぬかれでもしてるんじゃないかとさえ疑った。軽いのは使われている紙のせいで、これは一度ページを開いて空気に触れると縁の部分が湿気を吸って微妙に波打ってしまうような粗末な代物だ。僕が普段暇つぶしに読んでいるアーチーコミックスのダイジェスト版の紙質とたいして違いがない。その一方で、ハードカバーのガワの部分だけはそれなりに上等にしつらえてある。表紙の表側には正面を見据えるスワンプシングの迫力ある容貌が濃い緑の地に黒一色でもって描かれており、それをかたどるレリーフ状の加工が洒落ている。さらに、背の部分を挟んで布張りが施されていてとても高級感がある。紙のカバーなどむしろないほうがいいんじゃないかと思えるほどだ。もちろん、紙質の酷さは価格に反映されているんだろうが、コストを切り詰めるためならハードカバーも凝った装丁も要らないはず。結局のところ、愛蔵版としてのハードカバーと普及版としてのトレードペーパーバックの中途半端な折衷になってしまっている。

補足

  • 2009年7月14日:書き足りなかったので追記修正した。
  • 2009年7月23日:さらに追記修正。
  • 2009年12月28日:ちょっと評価が厳しすぎたと思うので6点から7点に訂正。
Rating
7/10